『語られなかった敗者の国鉄改革』
『語られなかった敗者の国鉄改革』秋山謙祐、情報センター出版局
いま、JR東海の社長・会長をつとめた葛西敬之が日経で「私の履歴書」を連載していますが、そのあまりの歴史修正ぶりが我慢できなくなり、その対極の本を読みたくなって一気読みしました(敬称略)。葛西が分割・民営化で参考にしたのは電力で、国鉄改革の初期に推進派の立場の大谷健『興亡』と、分割反対の立場から書かれた近藤良貞『電力再編成日記抄』を読み比べたというんですから、こういうのは必要かな、と。
葛西は連載している「私の履歴書」でも、2001年に上梓した『未完の「国鉄改革』でも、まったく触れていないことがあります。それは、国鉄改革が国鉄の分割・民営化という形に決着した最大の理由は、田中角栄が1985年2月27日に脳梗塞で倒れたこと。それまでは田中曽根内閣と呼ばれていた中曽根首相が、田中派の大部分を引き継いだ竹下経世会をバックに、戦後政治の集大成という自ら設定したアジェンダに向けて歩み始め、国鉄をたんなる民営化だけではなく分割・民営化の方に舵を取れたのは、田中角栄が政治的影響力を失ったからでした。『未完の「国鉄改革』の巻末に載っている国鉄改革関連の年表にも、このことは載せられていません。
秋山は《「角さんの腹は看板こそ変えるが全国はひとつ。覚えておけ」武藤委員長から囁かれていた。金脈問題、ロッキード事件で政治の表舞台からは消えたものの、田中角栄元首相の政治的影響力は依然として絶対だった。私たちはそこに期待をかけていた》と書いていますが(p.154-)、列島改造論に沿った形で東海道・山陽新幹線に続き82年に開業した東北、上越新幹線は、建設期間がちょうど田中派の絶頂期と重なっていたことなどからも、国鉄内部に絶大な影響力を持っていました。
国労と田中派との密接な関係は、田中角栄の一の子分と言われた二階堂進に、モスクワ帰りなどにはコイパーという大好きな葉巻を必ず土産として持っていったあたりからもうかがえます(p.141)。
その角栄が首を振らないのだから、民営化はともかく、分割は阻止して、余剰員対策なども国労などと協調しながら《ゆるやかな雇用調整(p.171)》でソフトランディングしようとしたのが縄田国武副総裁(2011/1/12死去、享年83)と太田知行職員局長でした。
これに対して、全国1本の組織で十数人という国会議員と七百人以上の地方議員を抱える国労を中心とする労働組合を一気に潰し、地方の実情に応じた賃金やサービスなどを実現するために、新しい労使関係による再生を分割によって目指したのが三人組といわれた井手正敬、松田昌士と葛西敬之でした。
国鉄は1兆円を超える赤字の垂れ流しによって経営形態の変更=民営化までは追い込まれたのですが、そこで全国組織を残すか、それとも分割するかという問題で国体護持派と三人組が争ったのが田中角栄が倒れた後の図式でした。
それまで国体護持派と国労は自分たちこそ田中角栄という「玉」を握っていると思っていたのですが、その玉がなくり、いつの間にか中曽根首相と竹下派という「玉」を手に入れた三人組が宮廷クーデタで分割・民営化を実現したのが国鉄改革終盤のサマリーです。
このところに触れずに、まるで自分たちのアイディアと行動力だけで55年体制成立後の最大の社会・経済改革を実現したという葛西流の書き方は、歴史修正主義もいいところ。
ということで、国労幹部の本を読んだのですが、フツーの方々は秋山企画部長といってもピンと来ないと思います。
国労企画部長というのは24万人を組織していた国労のスポークスマンとして書記長を補佐し、各部を統括して運動の企画立案にあたる最も重要な役職でした。国労企画部長出身者には《社会党の重鎮として一派をなした横山利秋、野々山一三。総評事務局長として名をはせた岩井章、そして富塚三夫。社会党・総評ブロックの歴史に名を刻んだ人々が、このポストから飛び立って》いきました(p,152)。24万人組織の事実上のNo.3と言ってもいいと思います。
で、ぼくが知っている国労企画部長でもっとも切れ者のイメージだったのがこの本の著者。労組幹部らしくないスマートさと、落ち着いた話し方が印象的な人物でした。
その秋山さんですが、母子家庭で育ち定時制高校に通いながら鉄工所に勤め、組合活動で問題を起こして干され、国鉄に臨時職員として入社。助役から「若いうちは勉強しろ。国鉄では試験に受かれば、どこまででも上にあがれ、大学課程にだって行ける」と励まされたというあたりで滂沱と…(p.26)。
《あの戦争の開戦の年に生まれ、出征した父の顔も知らず、母に抱かれて疎開し、やがて父を亡くし、貧しい時代を過ごしてきた私の世代には、たとえば日教組の「教え子を再び戦場に送るな」とか「青年よ二度と銃をとるな」といったスローガンが素直に身体に染み込んでいた》(p.48)というあたりも、戦争で父親を亡くした人の口から語られれば何も言えません。
真面目な秋山青年は国労通信講座を受け、1年したら本部主催の1週間合宿で鍛えられるなど、組合の中で頭角を現わしはじめます。配属されたのは、開設して間もない静岡運転所。ここは動労、民青が多く、労働学校帰りの秋山青年部長は、翌年入る高卒の自宅を訪ねて国労加入を説得。もちろん動労からのアプローチも凄く、一人に17回通ったこともあったとか。組織の奪い合いは掴み合いになることもあり、職場は組合支配に陥っていたというあたりの描写も率直です(p.51-)。
日韓基本条約反対の指名ストの拠点となって、表向きは缶詰にされて外に出られなかったということにしてストに突入。青年部長として戒告処分を受けたが、地方本部からもらった見舞金が結構な額だったので嬉しかった、と。こういうことを正直に書ける秋山さんは、やはり偉いと思います(p.54)。
国鉄の生産性向上運動マル生運動が、政府の介入によって当局の敗北、組合側の勝利になったのは、佐藤退陣の花道となる沖縄返還に合わせて、あまり政治的にゴタゴタするのは回避したいという思惑があったというのは、さすがに当事者からの視線。分かりやすい説明だと感じました(p.68)。
国鉄改革の終盤、日共では珍しい叩き上げの金子書記長に土壇場で会談を持ちかけられるも《この党は無謬の党。妥協や敗北を認めることは絶対にできない人たちの集団。妥協や敗北が避けられない場合には、いつも誰かのせいにして自分たちの正当性だけを主張する集団。何の意味もない会合だった》と切って捨てるあたりは、秋山さんらしい(p.210)。
にしても思うんですが、秋山さんが持ってなくて、動労が持っていたのは、自前の財務基盤だったのかも。かつて、都知事に革新統一候補として出馬した太田薫に、日共と手を切ることを前提に約束した日共が出してきた資金の肩代わりも結局、渡せなかったそうですから(p.254)。
《戦闘的・階級的労働運動とは、雇用と労働条件を国鉄に擁護された企業内組合の枠の中で、独りよがりの子供芝居をしていたにすぎなかった。社会党や総評もまた、五十五年体制のぬるま湯にどっぷりとつかり込んで政府権力のおこぼれにあやかることをもってよしとする体質から抜け出ることはなかった》というのは、彼なりの総括でしょう(p.288)。
秋山さんが現実路線に舵を切ろうとした修善寺大会で敗れて国労企画部長を解任された後、国鉄職員局のキャリアたちが開いてくれた慰労会で語ったということですが、この言葉は真実だと思います。秋山さんは自前の財政基盤を背景にした腕力はなかったけど、本当に出来る人だったと思う。p.288の総括だけでも大したもの。
国労でも帝国陸軍でも必敗の情勢の中で、必ず威勢のいい「断固戦う」路線が選ばれ続け、最後の最後にポツダム宣言を受入れなくなるところまで追い込まれるのは、人間はやはりサルから進化したけど、政治の世界ではサル性からなかなか抜け出られないんだろうな、と思います。
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