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October 17, 2015

『私の1960年代』

My_1960

『私の1960年代』山本義隆、金曜日

 『私の1960年代』は全共闘の精神史として読もうとすると期待を裏切られるかもしれませんが、明治維新からの富国強兵の基礎となる科学の軍事利用のための理系大学史として読んでも十分に面白い本でした。

 山本さんによると、日本では近代科学、つまり西欧の科学は「科学技術」として、つまり技術と一体のものとして移植されたそうで、科学技術という言葉は日本にしかないそうです(p.168)。

 それにしても、日本は絶妙なタイミングで近代資本主義に間に合ったんですよね。もう少し遅かったら吸収すべきものが多すぎて、母国語による高等教育は他のアジア諸国のようにできなかったのかもしれません。当時はまだ西欧でも用語が混乱し、中岡哲郎さんによると過去の科学文献が違和感なしに読めるようになったのは19世紀中頃とか(p.174-)。

 そうやこうやで、維新政府の工部省工部寮は工部大学校に改称されて、帝国大学工学部になったんですが、武士にそれまで賎しいと思われていた実学を学ばせるために、技術はことさら科学技術として、官学として位置付けられられたそうです。それによって江戸時代の医師の洋学から、士族の洋学が誕生したというあたりはうなりました(p.177-)。

 本の前半に書かれていたことですが、気象学も、毒ガスをどう効率的に散布したらいいのかなど、軍事作戦への応用が重視されていたあたりは、浅学非才の身なので、目ウロコでした。また、司馬遼好きが愛する日本海大海戦でも、世界初の無線通信の実戦使用が行われたが、それはマルコーニの発明から、わずか9年後だった、とか(p.189-)。明治政府はやるもんです。さすが科学史家としても一流の仕事をしているというか、とにかく最初の方の明治からの海洋学、気象学の対軍協力あたりからすでに面白い。

 戦前の日本はほぼ10年に1回の割合で大きな戦争をこなしていったんですが、その最後にあたる太平洋戦争時代でも《戦時中の科学技術ブームで一番うまい汁を吸ったのは文句なしに東京帝国大学》だそうです。植民地支配のための東洋文化研究所と第二工学部を新設。第二工学部は造兵学科、航空機体学科、航空原動機学科もあり化学兵器の講義も行われていた、と。

 実は戦後の新幹線建設もこうした教育の賜物だとか(p.207-)。《戦時下理工系ブームでの科学技術教育が線後日本の技術的発展の初期条件となって》おり、無名の町工場だったソニーの《母胎はマルゴト海軍》で、《零戦と戦艦大和で敗北した海軍が、トランジスター・ラジオとウォークマンでリベンジを果たしたという次第》だそうで(p.215-)。

 ということですが、自己否定をキーワードとする全共闘の精神史という面では、食い足りない部分もあるというか、ぼくごときが言うのも申し訳ないんですけど「青すぎるんじゃないかな」と思う部分もありました。

 それは例えば原子力問題への批判。

 岸信介は1958年の正月、伊勢神宮や靖国ではなく、東海村の原子炉を視察しています。こうしたプラグマティックなところはさすがだと思うんですが、山本さんは、これを兵器転用を目指したものと捉えてけしからん、としているんです。しかし、山本さん自身が、引用している回顧録をみても、原子力の平和利用を進めることによって、兵器利用の潜在的可能性を高めて、その副産物として抑止力を持とうとしたことを理解してないように思えるのは残念。

 安全保障戦略で高い有効性が認められるのは相互確証破壊(MAD、理論的には相互確証破壊が確認された2ヵ国間では核戦争を含む戦争は発生しない)なわけで、そうしたことも含んだ上で、書いた方がいいのにな、と感じます。

 山本さんは日共について、自分たちの武装闘争路線への反省を忘れて、何でもアメリカが悪いという60年安保時の方針を「安易な闘争の民族主義的歪曲」と批判しているのに(p.16) 自身の原発に対する見方については、同じような安易な決まり文句で片付けるやり方のように感じます。

 丸山真男批判にも同じような違和感を感じます。山本さんの丸山真男批判は基本的に守備一貫していないじゃないか、言行一致していないという内容なんですけど、実は陽明学の文化をバックにしているんじゃないか、みたいな。やがては明治維新を通じて昭和陸軍にも通じる江戸時代に受け入れられた陽明学のファナティズムの遠い影響を感じてしまいます。といいますか、山本さんは、守備一貫した生き方や言行一致が可能だと思っているんでしょうか。

 もちろん山本さん個人は駿台講師としてアカデミズムとは縁を切り、世の中との没交渉となって、60年代の闘争の始末をつけているふるまいは本当に立派だと思いますし、山本さんの潔い生き方が全共闘世代に対する批判を一定程度抑えているとも感じます。だからといって、そうしたことを全員ができるとは思えません。

 山本さんは獄中でカッシーラーに出会って翻訳書を出すんですが、それに当たって世話になったのは廣松渉さんだそうです。1963年の大管法闘争の時、タテカンを作っていたら、通りかかった廣松渉さんからタテカンを作る時は少し曲がった釘で打ったと方が抜けにくく、壊れにくいと教えられたとのこと。

 この本は東大全共闘の歴史というより、なぜ当時、戦わなければならないと思ったのかということを、戦前からの軍部や産業界への協力機構としての東大、理系教育批判を通して改めて考えるというあたりに価値はあると思うんですが、この「廣松さんから釘の打ち方を教わったのは、私ぐらいかもしれません」というエピソードは心に残ります(p.298-)。

 廣松渉さんの自叙伝を読んで、一番面白かったのは、朝鮮戦争当時、米軍は相当、戦況が悪く、釜山から追い落とされる可能性もあって、そうしたら九州で蜂起して、臨時革命政府宣言をやって、「同志スターリンの軍隊の介入を要請する」というプランが「国際派が正式に決めたものじゃない」にせよ暖められていたというあたり(『哲学者廣松渉の告白的回想録』p.99)。

 個人的にも日共あがりのお偉いさんから凄い話しを聞いたことがあります。その人は外語大のインド語学科に日共の指示で入学したというんですが、その理由というのは「日本で権力奪取したら、後はインドをやっちまえば世界革命がほぼ完成する」なんていう仰天だけど気宇壮大なプランを持っていたらしいからだというんですわ。まあ、そんなことを考えるような雰囲気は確かにあったらしいということで。

 山本さんは全共闘議長として貴重な時間を潰された左翼陣営の腹の探り合いについて、深作欣二監督の『仁義なき戦い 代理戦争』を見た後で、身につまされたと書いているんですが、そうか、そういう見方もあるのか…
と思いました(p.18)。見直してみようかな、と。

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