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August 10, 2015

Nagata_tetsuzan

『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』 早 隆、文春新書

 ぼくは単なる日本近現代史好きではありますが、さらにアマチュアっぽさを露呈することを覚悟して、ただひとつifを問うとすれば、もし帝国陸軍の永田鉄山軍務局長が皇道派の中佐によって惨殺されなかったら…ということをどうしても考えてしまいます。

 永田軍務局長の告別式は1935年8月15日。翌年が2.26、2年後が支那時変で、さらに10年後には、日本に住む人々に歴史上ないほどの惨禍をもたらした戦争が完膚なきまでの敗戦で終わるわけですが、もし10年の生が与えられたら、太平洋戦争はあんな結末にはならなったんじゃないかといいますか、少なくとも、もっとうまい負け方が出来たんじゃないかと感じます。斬殺されたので老醜をさらさなかったという面はあるかもしれないけど、魅力的な人物です。

 一例をあげますと、惨殺される6日前の8月4日《中国の非戦闘区内において、日本軍の守備隊が攻撃されて負傷者が出るという「欒(らん)州事件」が勃発。再び、日中関係に緊張が走った。この事態に対し、永田は外務省と連携しながら迅速に対応。六日には、関東軍に「軍中央と密接に連絡を取ること」と指示を出して現地の行動を牽制し、事後処理に関しては「関東軍ではなく天津軍(支那駐屯軍)に当たらせるという決定を速やかに下した》《もし仮に、永田の適切な事後処理がなかったとしたら、今では多くの日本人がその名前も知らない「欒州事件」が、「盧溝橋事件」のような扱いで、近代史に名を刻んでいたかもしれない。これを以て、永田は出先機関である関東軍の独走への対処法にも、一定の道筋を付けた。永田が最後に残した大仕事と言えよう》(p.211-)ということもあったそうです。

 永田が惨殺されたのは、翌36年に2.26事件を起こす青年将校らの皇道派などの跳ねっ返りを抑え込もうとした「統制派」の中心人物だったから。ナチズムのような国家社会主義を天皇中心に実現することを皇道派は夢想していたわけですが、そうした幻想には惑わされず、まず産業を興して国力を涵養し、そこから総力戦体制をつくりあげよう、というのが永田の構想。もう一人、天才肌の石原莞爾による満洲国を中心とした世界最終戦争に向けた不敗体制作りという構想もありましたが、どう考えても永田の中庸的な考え方が優れていると思います。

 総力戦体制とは近代戦争においての物資供給の役割に甘んじていた経済が、国家に奉仕する日陰の役割から解放され、自力で行動する権力の座についた、ということだと『三つの新体制 ファシズム、ナチズム、ニューディール』W・シヴェルブシュの訳者あとがきで書かれていましたが、永田はそうしたことを理解していたのかもしれません。

 永田の構想を具体的に敷衍するなら、満蒙の資源を確保することが日本の工業化を促進すというもので、中国には統一政権による戦力がないから簡単に支配でき、米英との軋轢も外交で解決できる、というものだと思います。しかし、そのためには、微妙な手綱捌きが必要でしたが、自身の早世によってそれが不可能になり、石原や武藤らによってアクセルがかけられてしまい、米英との対立が不可避となってしまった、ということでしょうか。

 帝国陸軍の軍務局長というのは、今の官庁でいえば事務次官のような立場だと思いますが、産業界や政界とも密接な連携をとりながら国力を充実させていこうというやり方が、皇道派には「政財界との癒着」に映っていたというのはやりきれません。

 日本人というのは生真面目さが好きですよね。2.26の青年将校への評価でも、東北の貧困をどうにかしようとしたとか「本当に実現できたと思っているの?」みたいなことを平気で書くヒトもいますから。

 それより、永田が手紙に書いているように〈国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大なるものなるべし、此の欠陥を糊塗するため粉飾する為に、まけ惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるのは止むを得ぬ事ながら之を実際の事と思い誤るが如きは大に注意を要す〉というのが正しい現実認識です(P.157)。

 そうして、三月事件、陸軍士官学校事件などを起こす皇道派に対して、その中心人物であった真崎甚三郎教育総監(教育総監は大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官のひとつ)を更迭したことで、激昂した相沢中佐によって白昼、執務室内で惨殺されてしまいます。

 この本は歴史家の研究書ではなく、ノンフィクションライターによる評伝ですが、相沢による惨殺の場面などは初めて読むような内容でした。

 それにしても、永田の再婚時、真崎甚三郎は仲人格で結婚式に出ていたというのは知りませんでした(P.117)。三月事件の時の永田メモを事件への関与を示す証拠とデッチ上げたりして、この真崎という人物はようわからん…。解任後も吉田茂や鳩山一郎とも接触をもち、提携には至らなかったものの宇垣一成とも交渉をもち中野正剛や石原莞爾とも接点を持って次の機会をうかがっていた、というのも意外というか、皇道派と名乗っていても随分、生臭い感じを受けます(『歴史と私』p.126)。

 一方、永田鉄山はドイツのソ連侵攻にも、ドイツ有利と手放しで喜ぶ参謀本部とはことなり、支那に手を焼いている日本と同じになると判断していたそうです(『陸軍軍務局と日米開戦』p.84)。

 こうした永田鉄山のような現実的な考え方は、左右両方のアホな言葉、情緒的な言葉、自分のアタマで考えたことのないRTや「いいね」などによって、今の時代も殺されているかもしれないな、なんてことも考えてしまいます。

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