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July 21, 2015

『三つの新体制 ファシズム、ナチズム、ニューディール』

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『三つの新体制 ファシズム、ナチズム、ニューディール』W・シヴェルブシュ、小野清美,原田一美(訳)、名古屋大学出版会

 シヴェルブシュは技術の発展が人間に与えた影響などを取り上げてきましたが、今回の本はもっと大きな経済そのものといいますか、資本主義の危機が人間に与えた影響をテーマにしています。

 描かれているのはプロパガンダ、シンボル建築などの媒介を通してみると一目瞭然にわかる、ドイツ・ナチズム、イタリア・ファシズム、アメリカ・ニューディールの驚くべき類似性。太平洋戦争に突入する前の日本の革新官僚も似たような印象なのですが、それは経済中心といいますか、総力戦体制が《近代戦争(冷戦も戦火を交えないだけで同じ)の物資供給の役割に甘んじていた経済が、国家に奉仕する日陰の役割から解放され、自力で行動する権力の座についたこと》を意味するのかもしれません(訳者あとがき)。

 1937年には合衆国における失業率が飛躍的に上昇し、ほぼ1932年の水準に達したが、ドイツとイタリアでは完全雇用だったそうです。合衆国が第二次大戦で経済危機を克服したことを考えれば、三つの新体制は軍需景気、最終的には戦争を必要としたというわけですし(p.24-)。

 ルーズヴェルトのニューディールは私益に対する公益の優先が主張されており、彼の『前を向いて』はナチスが書いたとしてもおかしくない、と見られていたといいます。

 一方、イタリア・ファシズムはエチオピア侵攻までは西側民主主義国から、ボルシェヴィズムに対する要塞と評価されていたとのこと(p.18)。

 ファシストたちは、自分たちのプロパガンダは「教育」や「情報」であり、敵のものは「プロパガンダ」だという点で一致していたそうですが、これも自民党のバカっぽい青年部なんかをみても、似ている(p.67)。

 ドイツ、イタリアだけでなくアメリカ、ソビエト・ロシアでも第一次世界後にはナショナリズムが高揚し、先立つレッセ・フェールの50年間に破壊されたものを取り戻すことが主張されたそうです。それは個人主義によって廃棄されそうな共同体や工業によって脅かされる手工業、文化だった、と(p.98)。結局、ナショナリズムはグローバル経済に対する抵抗として組織されていったのかもしれません。

 ムッソリーニのポンティーノ湿原の開拓は、創世記を連想させる表現でプロパガンダされた。それは水からの土地の獲得という追体験といえそうだ、というんですが(p.135)、これってナチスの党大会を描いたリーフェンシュタールの『意思の勝利』のオープニングが、まるで創世記1:2の「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」みたいな描写だったのとパラレルのような気がします。

 ムッソリーニの行った沼地の干拓は古代ローマ的技術水準なのに対し、ルーズヴェルトのTVAとヒトラーのアウトバーンは最新の技術によるプロパガンダだった、と続くんですが、当時の日本における国家を感じさせる大事業は干拓だったから、ムッソリーニ的段階だったのかな…。

 銀行は人間を熱狂させることはできなかったが、電化の理念は技術に投影された人類社会主義のユートピアだった。ゾラも電力によって機械は労働者の友となったというあたりはカツコ良い。この点で米GEのチーフエンジニアとレーニンは一致していた、というあたりも面白い(p.145-)。

 発電所という中央集権化は、小さき者を強めるものとして理解された。TVAで生産された電気は、侵食される脅威ではなく、国民のものとして理解された(p.147)。

 アメリカにファシズムも社会主義も根付かなかったのは、階級意識がないから。逆にヨーロッパでは階級意識が原動力になってファシズムも社会主義も駆動された、というあたりはハっとしました(p.166)。

 閑話休題。

 大学院の時に課題として与えられた本で印象的だったのはSchivelbusch, Wolfgang 1979 The Railway Journey:Trains and Travel in the 19th Century=1982 加藤二郎訳『鉄道旅行の歴史 19世紀における空間と時間の工業化』法政大学出版、シヴェルブシュでした。

 『鉄道旅行の歴史』にはこんなことが書いてあります。

 近代以降の産業の発展に伴い、都市では物や人々の交通が一層盛んになってきました。近代における交通は、距離的に隔絶していた空間同士を接続するのですが、こうした新たな交通を支えてきたのが、「速度」という概念です。十九世紀初期、鉄道が社会にもたらした働きについて「時間と空間の抹殺」という表現がよく使われていました[Schivelbusch,1979=1982:49]。そして、新しく鉄道という交通手段がもつ速度が導入されたために、場所と場所との空間的、時間的隔たりが短縮されたことによって、かつて自然の中を緩やかに進行する馬車交通が有していた伝統的な空間・時間との連続性が失われてしまったのです[Schivelbusch,1979=1982:52]。
シヴェルブシュは、十九世紀における、もうひとつの鉄道に関する暗喩として「風景空間の中へ打ち出された『発射体』としての鉄道」を持ち出します[Schivelbusch,1979=1982:71]。「発射体」とは、非常な高速で運動する鉄道の持つエネルギーの脅威を表現したものです。

 その後に読んだ、こんなのも印象に残っています。

 Mary Ann Doane, 1990, Information Crisis, Catastrophe, p230では、シヴェルブシュを引用しながら、以下のようにカタストロフを説明しています。

 (航空、鉄道など)交通の各モードが、進歩した複雑な技術に日々、恒常的に依存すれば、カタストロフの潜在的力は増加する。こうしたテクノロジーの崩壊は、それらが安全で快適な自然状態から、いかにかけ離れてしまっているかというシグナルを送り、根源的に親しいものにさせない。19世紀の鉄道におけるケースだが、ヴォルフガング・シヴェルブシュが指摘するように、テクノロジーの緩やかな受容と常態化は、断続する事故のショックにさらされた。

 「列車の時刻表が文明化すればするほど、技術が効果的になればなるほど、虚脱常態での破壊は、それだけに惨たんたるものになると言えよう。自然を制御する技術水準と、この技術が起こす事故の落下速度との間には、正確な比例関係が成立している。産業革命前の時代は、この意味での技術的な事故というものを知らなかった。ディドロの百貨全書では、「事故」(accident)は文法的、哲学的概念であり、事故とは偶然と同義語だった。その時代の大惨事は自然の出来事であり、自然の事故だった。大惨事は、それが抹殺する対象に向かって、嵐、洪水、雷、坑内ガス爆発などという形で外部から訪れる。これに反して、産業革命がもたらすこととなる、技術的な事故による破壊は、いわば内部から訪れる。技術的な機械類は、自分の力で自らを破壊する。作業量として調節して送り出すために、蒸気機関が抑制しているエネルギーは、事故の際には蒸気機関自体に止めを刺す」[Schivelbusch,1979=1982:168]

 20世紀後半、テクノロジーの崩壊の持つ潜在的力は、列車や航空機事故のように、科学技術が予測できなかったボパール事故、チェルノブイリ原発事故、チャレンジャー号の爆発事故、巨大地震のように種々の広がりと特色をもつカタストロフとなる。しかし、この巨大な膨張は決定的な差異を生むものではないだろう。デトロイトの墜落事故の後、航空当局は事故の全ての痕跡を隠し、他の乗客を精神的トラウマから逃れさせるために、燃えつきた芝生をスプレーで緑色に塗った。しかし、この措置がラジオのニュースで報道されたとき、我々にとってカタストロフにおいて危険なのはマスコミ報道であるということがわかった。カタストロフの映像があるレベルで封じ込められても、それらは互いに増幅される。メディアは我々に、強迫観念に襲われているかのように、何回も何回もカタストロフと向き合うように仕向ける。十九世紀における列車事故はジャーナリスティックな調査に焦点が絞られ、その影響は大部分がローカルなものだった。しかし、テレビの遍在とその広がりは、個体の死の割には、原子力事故の潜在的力を常に思い起こさせる世界的なカタストロフの体験や大量の死を思い起こさせる。

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