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June 19, 2015

『陸軍省軍務局と日米開戦』

Rikugun_gunmukyoku

『陸軍省軍務局と日米開戦』保坂正康、中公文庫

 現代史家といいますかノンフィクション・ライターである保坂正康さんによる、陸軍省軍務局軍務課の高級課員、石井秋穂の視点を借りての東條英機内閣の成立から、日米交渉の破綻までを描いたノンフィクション。

 最初の『破綻 陸軍省軍務局と日米開戦』が出たのは1978年で、当時は小説風のノンフィクションがニュージャーナリズムみたいな感じでもてはやされていたな、なんてことも思い出します。

 にしても、改めて小説風に描かれてみると、東條の首相就任は本人にとっても晴天の霹靂で、大命降下は昭和天皇などの側近がいったんは戦争突入と決まった国策を、もう一度、米国との外交を試みる方向に切り返すことを目的に、その際、暴発しそうな陸軍を抑えることが期待された、という感じがよくわかります。

 昭和天皇の言動をみても、東條に対する評価は高いのですが、それは、いったんは仏領インドシナからの撤退を拒んで日米交渉を暗礁に乗り上げさせた尊皇家の東條に、それでも再び交渉をしてみろと命じたら、実際に交渉を再開したからではないでしょうか。

 実際、東條は交渉が妥結した場合に2.26事件の再発を恐れ、警察と陸軍の指揮命令系統を掌握するため内務大臣と陸軍大臣を兼務し、内務省も人事総入れ替えで治安問題の専門家を要職につけたそうです(p.63-)。ちなみに、総理大臣と内務大臣と陸軍大臣の兼務は歴代でも東條だけ。

 主人公である石井秋穂が所属する軍務局は、皇道派の相澤に惨殺された永田鉄山が局長を務めていました。軍務局長は陸軍省ではナンバー3のポストで経済人や政治家とも付き合いが必要ないわば陸軍の政治担当窓口。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と呼ばれた永田鉄山は東条を使って内部統制を進め、石原莞爾に対外戦略をやらせようとしていたぐらいの人物。

 石井秋穂が在籍していた頃の局長はA級戦犯として処刑された武藤章。武藤は盧溝橋事件に際して、不拡大方針をたてた上司の石原作戦部長に対して「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と言い放った皮肉で有名ですが、その後、実際に現場で指揮してみると中国軍の手強さを感じていたというのは知りませんでした。昭和14年頃には日中戦争の収拾を考えていたというんですが、後悔先に立たず(p.25)。

 まあ、それでも口が悪く東京裁判ではそれが元に死刑を宣告されたと言われるにせよ、ドイツ軍のソ連侵攻に際しても、ドイツ有利と手放しで喜ぶ参謀本部とは異なり、支那に手を焼いている日本と同じになると判断していたというのは渋いな、と(p.84)。

 それにしても、陸軍が満州事変、支那事変、ノモンハン事件と現場が独断専行したことが日米開戦につながったわけで、海軍はそれの尻拭いをさせられるという気分があったんでしょうね。そして、昭和天皇や文官にも、もうサーベルをガチャつかせて威嚇する陸軍の独断専行は許さないということで、押さえ役の切り札である東條を首相に交渉を重ねさせたけど、最終的には海軍も「戦争はできない」と言えずに「えいや」でやっちまっんですかね…。まあ、膨大な予算を使っていながら「やっぱり戦えません」とは言えなかったというのは気分としてはわかりますが、リーダーとしては最悪ですよね。

 そして、いざ米国との外交を再開しても、アメリカのみならずイギリス、ソ連、中華民国という連合国全てが、日本がアメリカを先に攻撃する事を望み、しかも、日本と駐米アメリカ大使館との間のやりとりは全部、解読されていたというんですから、もうなんともはや…(付け加えれば、もちろんヒトラーも真珠湾攻撃を知って大喜びしました)。

 イギリスと中国はアメリカが参戦してくれなければ敗北寸前でしたし、ソ連も日本が南方に向って攻めてくれればソ満国境の兵力を西に向けることができます。

 確かに、真珠湾攻撃は見事でしたが、宣戦布告が遅れたことも相まって、米国を二方面作戦というとんでもない冒険に駆り立てたのですから、日米交渉は全体をみれば悲劇を通り越して喜劇。

 にしても中華民国の在米大使、胡適は少しでも日本に妥協的な態度を米国がとろうとすると猛烈に抗議するんですよね。少しやりすぎじゃないかというぐらい。でも、彼らは最後にチキンレースに勝つんですよ。この差はなんなんですかね…。

 後は箇条書きで…。

 松岡洋右は外務省出身ですが、外務大臣に就任した時には退官してから20年近くたっており、外交から遠ざかっていたんです。当時は、外相に外交官が就くほうが珍しかったのか…なんか松岡洋右に素人っぽさをかんじるのは、満鉄に長くいたブランクのためでしょうか。

 野村大使から日本の最終乙案を受け取ったハルは、最初、解読済みのものと同一かどうかを確かめたというんですよ。なんか、完全に掌の上で遊ばされている感じ。そして、ハルは、これを受諾するのは米には降伏に等しいと思った、と。

 日本は米国に石油を供給して、資産凍結を解除しろといったんですが、その駄々っ子みたいな要求は、なんつうか今の北朝鮮の感覚ですわな…。

 とにかく、皮肉なことにアメリカの戦略を助けたのは、統帥部の将校たちだったんですよ。ハル・ノートが届いたとき、彼らは喜色満面で、交渉妥結に賭ていた外務省や大蔵省、そして陸軍省、海軍省の官僚や将校を笑ったというんですが4年後の惨状はご存じの通りです。

 ハル・ノートがハルやルーズベルトの拒絶が「友人としての言葉」であることを理解できなかった日本の指導者たち、わずか三十人ほどの官僚、将校、重臣によって決されたのが、日本の戦争開始の実態だった、と(p.289)。

 《日本の指導者は被害者として自虐的に振る舞い、まるで熱病に浮かされたように挑発にのった。被害者としての無限の繰り言と加害者への怨嗟だけが気休めになった》が、ハルノートと同じ屈辱を日本が中国に与えていたと想いを致す者は1人もいなかった、と(p.291)。

 トラウトマンを介しての日中和平の働きかけの際、戦闘に勝っているのにゆるい条件を示すのかと強硬な態度を示したのは統帥部で、組し易しとみるとつぎつぎに過酷な条件をつみあげていきました。蒋介石の病気などもあって、トラウトマン工作は失敗に終わりますが、ハルノートへの反発は、加害者であったときの傲慢さと表裏の関係にあった、と思います(p.301)。

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