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May 21, 2015

『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』

History_and_me_itoh

『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆、中公新書

 オーラル・ヒストリーの伊藤隆先生自らのオーラルヒストリー。いきなりをネタバレをお許しいただければ、オーラルヒストリーといえば、もうひとり御厨貴先生を思い出すのですが、お二人は政策研究大学院大学でのプロジェクト終了後、絶縁状態だそうです。

 政治家や高級官僚などのオーラル・ヒストリーは歴史家自らが資料をつくるような試みであるわけですが、先駆者としてあまりにも性急に仕事を進めた結果、空中分解のような形になったようで、少し残念。ということで引き続き、そこらへんにも触れているハズの御厨貴先生の最終講義シリーズ『知の格闘』を読み進めているんですが、とりあえず『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』について…。

 伊藤隆先生はご多分にもれず、東大時代は日共に入ったのですが、ハンガリー動乱をめぐる対応に呆れて離れ、以降は保守的立場から研究を続けます。

 伊藤隆先生の初期の業績としては、それまでファシズムとひとくくりにされていた近衛新体制には軍部の革新派、革新派新官僚、社会大衆党、転向した共産党の多くが参加した「革新的性格」を持っているという位置づけを明らかにしたことがありますが、その部分に関して、。共産党転向派は戦後、再転向して再び日本共産党を作ったことに関して《多くの論者が彼らを必ずしもファシストとよんでいるわけではないのは一体どうしたわけであろうか》と皮肉たっぷりにコメントしています(p.117)。

 近代史研究では15年戦争を避けて通れませんが《戦争だって、日本だけでできるものではありません。「日本がなぜ戦争をしたのか」だけでなくて、「これらの諸国はなぜ戦争をしたのか」を問わねばならない。歴史はもっと綿密に、かつ突きはなして検討する必要があるのです》(p.90)という立場。

 真崎甚三郎は吉田茂、鳩山一郎とも接触をもち、提携には至らなかったものの宇垣一成とも交渉をもち中野正剛や石原莞爾とも接点を持って次の機会をうかがっていた、というのは意外でした。皇道派の真崎甚三郎は教育総監更迭をめぐっては皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を陸軍省内で斬殺した事件も引き起こし、やがて東條の台頭を招くのですが…。ちなみに、鳩山一郎が東条内閣成立直後につくった同交会には芦田均、片山哲も参加するなど、戦後の3首相が顔を揃えていました(p.126)。

 今さら自分の無知には驚きませんが、真崎甚三郎の息子の秀樹さんは昭和天皇の通訳として25年もつとめ『側近通訳25年 昭和天皇の思い出』なんて本も出していたというのは知りませんでした。

  沖縄は太田県政と言われていたが、実際は副知事の吉元県政だったというあたりも新鮮。吉元さんは米軍基地問題をめぐる国と県の直接交渉を実現するなど力が強くなりすぎて太田が切ったら、本人も倒れ、沖縄では何も解決ができない状態になってしまったという指摘にはハッとしました(p.265-)。

 今の沖縄県政のどうしようもなさは、ここらあたりから来ているのかもしれません。

 宮沢喜一さんは日記をつける習慣はなかったが、海外にいる時だけ、英語で記録を残していたとのこと。らしいな、と思いました(p.270)。

 オーラル・ヒストリーという手法については、防衛庁時代に背広組として制服組を屈服させた元内務官僚(まあ、早い話しが警察です)の海原治さんが松野瀬三防衛長官のを読ませたら「オーラル・ヒストリーって信じられませんね。こんな一方的な話をして」と怒っていたということも記していますが、限界はあるんでしょう。しかし、それまで少なくとも日本に何もなかった研究手法を広めたという意義は大きいと思います。

 また、歴史研究者というのは資料の整理が大変なんだな、ということが改めてわかりました。伊藤さんがやってきた仕事のかなりの部分は、草書で書かれている昭和史の重要人物の日記や書簡などの資料を分類、整理した後、印刷可能なテキストに直してオリジナルを保管するというものでしたから。

 農村、漁村から資料を集めるだけ集めて分類しきれなかったものを返すことに研究生活の多くのエネルギーを使わなければならなかった網野善彦先生の『古文書返却の旅 戦後歴史学の一齣』中公新書を思い出しました。

以下はFACTA最新号の書評です。

史料発掘の執念が切り拓いた「昭和史」
『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆、中央公論新社(880円+税)
「伊藤君、助手論文のテーマは何にするのか」

「昭和史です」

「冗談だろう。そんな史料のない時代をどうやってやるんだ」

本書の著者は、だれもが認める近代史の泰斗であるが、同時に草分けでもあった。担当教官との会話に見られるように、著者が取りかかったときに「昭和」は歴史学の一部ではなく、政治学の対象だったからである。

もちろん草分けが、必ずしも泰斗となるわけではない。

「ファシズム」にかわって「革新」なる概念を導入して戦前の政治史に新たな視点を提示するなど、数々の学問的業績によってそう呼ばれるようになったのだが、これらの研究を支えたものこそ、日記や書簡など一次史料の発掘であった。

『木戸幸一日記』など手になった史料は多く、しかも「反軍演説」の斎藤隆夫から「右翼」の笹川良一まで多岐にわたっていて、いまやどれも近代史研究に欠かせないものとなっている。じっさい史料の収集編纂への著者の執念には、ただならぬものが感じられる。それこそ歴史家の責任だと考えるからだろう。

発掘にまつわる話が面白い。

三十年近く遺族に賀状を出し続けようやく刊行に至った『上原勇作日記』、直木賞作家の三男の意向で奔放な女性関係が削られずに出版された『有馬頼寧日記』など、単調と思われる史料発掘にも、じつは様々な物語が潜んでいる。さらに手間のかかる翻刻に労を惜しまない研究者、加えて採算が合わないにもかかわらず良い本を出そうとする編集者たち、彼らによって史料は刊行されており、行間からはその熱い思いが溢れてくる。

現在ではオーラルヒストリーと呼ばれる聞き取りについても、著者は草分けであった。

ここでは語り手のなんとも人間臭い話が紹介される。プロレスが好きだという「皇国史観」の学者平泉澄、死を前にしながらもインタビューに臨む政治家藤波孝生。百歳になっても原稿を見直す元軍人の扇一登には心が打たれるし、若き日の日記を自分でコピーする「ナベツネさん」には思わず微笑んでしまう。

その外にも長い研究生活におけるエピソードが満載されている。なかでは『中央公論』での司馬遼太郎との対談が興味深い。

「結局、雲はなかった。バルチック艦隊の最後の軍艦が沈んだ時から日本は悪くなった」

そう語る『坂の上の雲』の作者に、著者はこう反論する。

「坂を登っていって雲をつかめたかどうかはわからないけれど、かつて夢にまで見た、西欧的な産業国家になったのは事実です」

司馬遼太郎は大きな衝撃を受け、中央公論社の嶋中社長の判断で掲載は中止、お蔵入りになったという。この対談原稿を何とか読めないものかと思うのは、評者ばかりではないだろう。

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