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November 24, 2014

『一科学史家の自伝』

Nakayama_jiden

『一科学史家の自伝』中山茂、作品社

 新刊書だけでなく、今年、読んだ本の中で、一番、読み応えがあったのは、中山茂『一科学史家の自伝』です。自分の不勉強さと読書量の少なさには呆れるばかりですが、中山さんの存在自体、存じあげませんでした。この本を知ったのは、週間エコノミストの米本昌平先生の書評欄でしたので、これまでずっと読んできた山本義隆さんの科学史三部作なんかも独立峰だと思っていたという…。無知とは恐ろしいものです。

 内容に入る前に、全体の印象がとても爽やかだったということは書いておきたいと思います。中山茂さんは爆心地から3kmのところで被爆し、東大の天文教室では教授に放っておかれ、平凡社に入社して労働運動に巻き込まれ、1ドル=360円の時代にフルブライト留学生としてアメリカに渡り博士号を取得。東大教養学部に職を得ることには成功しましたが、学内政治の泥沼に入り込んで定年まで講師として過ごすも、多くの科学史の業績を個人としてだけでなく、トヨタなどの企業も巻き込んで残し、国際学会なども主催した、という方です。最後まで研究心を失わず、名誉教授として大学を去った後もデジタル・ヒストリアンとして研究を続け、最後は記憶だけで書ける自伝を仕上げ、ガン告知の後、ボンボヤージと船で世界一周の旅に発ってお亡くなりになるという見事な研究生活を送ります。

Nakayama

 《僕はハーバードのワイドナー図書館で自分の学問形成を行った》(p.495)と書いているほど図書館利用には独自のノウハウを披露されていて、ハーバードでは閉架の中に机を置いて、そこで必要な資料を積み上げて博士論文を仕上げるという羨ましい環境をつくったのですが、日本の大学の図書館ではそうした機能がないので、領域を中国と日本に絞って研究を続けるという思い切りの良さも感じます。

 自伝ですので、戦前の西日本の生活が描かれているんですが、なんといいますかもう別世界ですね。養鶏場に住み込んで屑屋をやっていた済州島出身者は、病気になると巫女を呼ぶが医者にはカネかかるので行かないとか、鹿児島出身の女中さんは米が食べられたのは盆と正月だけというシラスの生まれで、両親は鬼だと語るとか…。

 戦争体験も悲惨。ある時、部隊が満洲に出動するので、実家を民宿として面倒をみたことがあったそうですが、将校は、この部隊は皆死ぬと言ったそうです。ノモンハンの戦況が不利ということで意地でも部隊をつぎ込んだものですが、やはり負け戦になった、と。ラジオは勝ったといったが、その時に弟が泊まった小学校の担任は、戦死したと報告にきた、といいます。また、広島一中の勤労動員で消防署勤務を経験し、訓練の腕を振るおうとしたけど、次の機会は原爆で、手も足も出なかったとか。原爆の体験もすごいリアリティで、ピカッと光ったのがガラスに反射して、その方向になんかあったのかと思ったから立ち上がったけど、後ろから爆風が来てガラスが粉々になったとか。

 留学のことも人生の転機ということで長く書かれていますが、日本の官費留学生がもっとも数多かったピークは1920年代だとか(p.12)。ヨーロッパと日本は大学教員をつくるシステムをすでに戦前に持っていて、新しい養成システムをアメリカに習おうとしてもあまり本気になれなかったが、戦後自分で大学を持つようになったアジアの国、韓国、台湾、中国などはアメリカに大学院生を送って、その博士号を取らせて、教員、研究者を育てているというのは面白い指摘だな、と。《アメリカ人学者の多くは、アメリカのハイスクールは決して誇れるものではないが、大学院は世界に誇る制度だ、と信じている》というのはなるほどな、と(p.182)。

 というか自国語で教科書があって、授業を行えるというのはそうないでからね…。もっとも、今ではそれが弱味になる場面もあるようですが。ちなみに、満鉄のアジア号に憧れるような戦前の理系の学生には、旅順工科大学を出て満鉄に就職するというコースがあったそうです(p.477)。《研究至上主義は近代ドイツの哲学科からはじまったが、日本に西洋並みの研究至上主義が入ってくるのは東北大学理学部で、大正期になる》というあたりは西澤潤一先生を思い出しました(p.103)。

 留学からの帰りは飛行機なんですが、当時は、出発地と目的地の間では、何回でも乗り降りしていいことになっていて(沢木耕太郎さんの『深夜特急』の頃まではそうだったような)。パリ経由でエジプト、中東、東南アジアを廻って帰ってきます。途中バーミヤンにも立ち寄りますが、《バーミヤンの大石仏はタリバンによって完全に破壊されたが、それ以前も顔は大砲によって壊されていた》とのこと(p.171)。タイのレストランでの《中近東からインドまでは緊張度の強い社会であり、東アジアの穏やかな世界とは全然ちがうなとしみじみと感じ入った》という感想には、そうなんだろうな、と(p.175)。

 この後は日本での研究生活になるのですが《日本で西洋の科学史家として知られたのは、圧倒的にマルキストであった。中略 正統派は大学のスコラの伝統の上にガリレオ、ニュートンも位置づけるのに対し、マルキストは職人の伝統の貢献を強調》するという指摘にはハッとしました(p.136-)。これって山本義隆さんの史学そのものですもん。

 1959年に日本に帰ってきても日米の差は歴然としていて、コーネル大学の教授は、アメリカで国際科学史学会を開くため、ヨーロッパの学者に旅費を1000ドル出すという太っ腹。こうしててくれた結果、中山さんもその学会に出席できたそうですが、1962年当時、駒場の月給は60ドルだったとのこと(p.214)。これは米国のヨーロッパに対する学問的劣等感からきた大盤振る舞いなんですが、日本も敗戦国だったから国連加盟が遅れ、国連機関も長く無かった。やっと1975年に国連大学が出来たが、大学とは名ばかりのセミナー屋だった、と。これならユネスコなどもあるので、今更出る幕ではないという指摘は皮肉がきいてます(p.387)。

 中山さんは中国と日本の科学史をまとめようとして様々な資料を集めるんですが、《日本人は江戸時代まで、人が頭でモノを考えることを知らなかったのではないか。くびを刎られた刑死体しか解剖で見られず、しかも頭蓋骨は硬くて現代でも電気鋸を使うぐらいだから、当時は頭の中身が分からなかったのではないか》というのにはゾッとしました( p.232)。また、超新星の観測記録によく現れているですが、天文学といえば西洋では法則志向の科学であるが、中国日本で天文といえばそれは天界の異常現象を記録するもので、異常であるが故に興味を引き、ルーティン現象の法則を求める暦学よりも上位の学問であるというんですね(p.303)。だから、日本や中国の超新星爆発の記録が貴重なものになってくるわけですが。

 電子メールはグーテンベルク以来の大革命として後半に絶賛し続けるのは中山さんの向日性がよくあらわれている明るい評価だと思います。よくインターネットは軍が作らせたというが、実際には研究者が軍の気がつかないうちに、自分たちの都合のいいような連絡網を作り広まった、というのが中山さんの理解。政府が気づいてコントロールしようとしても、企業がカネ儲けしようとしても出来ない開放された快挙だ、と。

 東大を出た後は神奈川大学に移るんですが、大学を定年になったら新設学部に限る。授業少なくてラクなんてことも平気で書くところが素晴らしい(p.391)。

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