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September 28, 2014

『日清戦争』

Nisshin_war

『日清戦争』大谷正、中公新書

 日清戦争の発端っとなる李朝朝鮮の内紛って複雑怪奇で良くわからなかったんですけど、李朝のグダグダぶりが、王妃や皇太后の一族が政権を握る世道という制度に原因があったというのを知りました。

 また、中国との間で問題になっている南京大虐殺ですが、同じような問題が日清戦争でも旅順で起こっていて、その原因は、中国兵が軍服を脱いで民間人に紛れて逃げていったことと、まったく同じなんですね(もちろん中国政府はそれを口に出しませんが…)。

 さらに、山縣有朋が実は力を注いでいた地方行政ルートの整備が、戦争資金を集めたり、兵士の動員にも役だっていたなど、日清戦争は近代国家としてのシステムの勝利だったという側面もあったことが改めてわかります。

 1879年の琉球処分を清は朝貢国琉球の消滅と受け止めて危機感を高め、朝鮮を守ろうとしたんだそうです。その李朝朝鮮では王妃や皇太后の一族が政権を握る世道=せど政治の伝統があったため、王妃である閔妃の影響力があった、と。朝鮮の高宗と高官たちは清による朝鮮策略を配布して開花政策を進めたけど、儒学者が反発。日朝貿易で米不足となったこともあって支給が滞った兵士が反乱したのが壬午事変。高宗は事態収拾の術を失い、引退していた大院君に大権を委ね、大院君は兵士に給料支払いを約束し、閔妃は死亡したとして葬儀を行った、と。しかし、清は「属国である朝鮮の事件について査問して処理する」と出兵して大院君を拘束して天津に連れ去り、再び高宗と閔妃が実権を握る、と。

 再び開化派が台頭したけど、日本派と清派に分裂。そんな中で清はフランスと戦闘状態になり、不安となった高宗は日本に接近。竹添公使は稚拙な内政干渉によって甲申政変を起こすが失敗し親日的な急進改革派は消滅。これは朝鮮政策を担ってきた穏健派の井上や伊藤ら長州閥の失策ということになり、強硬派の薩摩閥の発言力が高まり、対清要求に朝鮮からの日清両国軍撤退など清の拒否が予想されるものになった、と。しかし、清の李鴻章は英国の説得もあって撤兵。これにより日本では長州閥の政局主導が回復したが、今度は英国が朝鮮南部の巨文島を占拠。日本は英露対立というグレートゲームが極東に波及し、ロシア南下を招くのではと恐怖。この結果、日本の朝鮮政策の第一目標が清の勢力拡大阻止から、ロシアの進出阻止に転換。巨文島占領直後の1885年には、清と連携して朝鮮政府の改革を行う「弁法八ヵ条」を結び、さらには天津条約も締結。壬午軍乱と甲申政変での対立が10年にわたって解消され、日清英協調体制となるというのが実は前提だったんですね。

 ロシアのウラジオストック建設以降、長崎からウラジオストックやシベリアには多数の「からゆきさん」(九州、特に島原・天草地方出身の売春婦)が向かい、冬期は長崎湾奥の稲佐沖がロシア艦隊の停泊地となり、水兵のための遊郭や日本人妻が居住する「ロシア村」の様相を呈した、というのは知らなかったですね(p.20)。場所は違えど『朱鷺の墓』でもロシアの軍人が料亭で遊ぶ場面が出てきますが、そうしたことは一般的だったんですかね。
 あと、1890年、最初で最後の陸海軍連合大演習が知多半島で行われたというんですよ。以降、陸海軍の関係悪化で連合大演習が行われなくなったんだな、と残念に思うと同時に、日露戦争でロシア側が、日本の陸海軍連携を異常に高く評価していたのを思い出します。日露戦争での共同作戦は、まだ建国時で「陸軍あって国家なし、海軍あって国家なし」の状態ではなかった、この当時の遺産でしょうか?(p.32)。

 李朝朝鮮での「東学党の乱」の東学とはキリスト教の西学に対抗して付けられたというのも知りませんでしたが、日本側の現地要員が伊地知幸介と知って驚きました。司馬遼太郎がコキおろした話しを全て鵜呑みにはしませんが、それでもちゃんと自分の目で見てきたのだろうかとか心配になります。

 さて、戦争に向けて傾斜する明治政府に対して、明治天皇は負けたら三種の神器をどう守るんだなどと反対していましたが、大本営を当時、山陽本線の終着駅だった広島に移した直後に平壌占領、黄海海戦勝利の報が届き、ホッとしたそうです。この後は凱旋してきた将校を謁見したりして、軍人天皇像を形成していったそうですが、皇后も女官と共に自ら包帯をつくり病院や戦地に送ったり、義足や義手を下賜し、傷病兵を慰問したそうです(p.98)。そういえば済生会病院も恩賜財団としてつくられたのは日露戦争語の明治44年(1911年)ですが、こうした動きの一環でしょうか。

 感心したのは、大山巌陸相が開戦時に赤十字条約遵守を命じた陸相訓令を発して、兵士には印刷した訓令や持たせ、第二軍司令官となっても法律顧問を従軍させたこと。海軍も旗艦松島に法律顧問が乗船していた、というんですから、この後、様々な事件は起こりますが、国際法遵守の姿勢は昭和の軍部よりずっと進歩的です(p.123)。

 にしても、早くも日清戦争で、後の南京大虐殺みたいなことが起こっているんですね…。

 中国は旅順陥落時に2万人の虐殺があったとしています。これは戦闘員を含めての数ですが、少なくはない。著者は、清軍兵士の死者は4500人としているが、この他にも民間人も含まれていた、としています。

 しかし、重要だと思うのは、大量虐殺が起こった原因が南京と同じこと。それは中国兵が軍服を脱いで逃亡したから。そして、日本に戻った山県有朋含めて、日本の現地司令官は戦闘意欲が高すぎなんですよ。中国側の低さとは好対照。

 まあ、無敵と思われていた徳川幕府を破った戊辰戦争の自信なんでしょうかね。それとも、日本だけが西洋的段階に達していただけで、そうした日本軍が蹴散らしたのは正規軍だけではなくて、地域住民の武力闘争だったのかもしれませんが、圧勝感は味わったんでしょうね。

 大山巌は欧米の報道で問題にされた際、市街の兵士と民間人を混一して殺戮したことと、懲戒のために捕虜を殺害した事実を認めたが、ここでも薄暮の中、清軍兵士が軍服を脱ぎ捨てて逃亡していたしています(p.130)。

 著者の評価は、清軍の残虐行為に興奮して復讐を行ったということにはとどまらない構造的な事件と考えなければならない、としてます。大山巌による赤十字精神の浸透は十分ではなく、戊辰戦争や西南戦争を経験した高級指揮官もそれを尊重していなかった、と(p.135)。

 また、タイムスの記者から旅順虐殺の善後策を糺された伊藤と陸奥は基地を占領して意気揚がる軍隊を調査処分することは困難と判断し、此儘不問に付し、専ら弁護の方便を執るの外なきとした、というんですが、まあ、当時のこととしては仕方ないところですかね…。

 朝日新聞は輪転機の導入、版画付録、写真付録など新技術の導入に熱心で、号外も多数発行するなど日清戦争報道で躍進した、というのは知らなかったな(p.162-)。また、地方紙は盛んに地元から出征していった部隊の活躍を報道したそうです(p.19)。

 また、今さら自分の無知と読書量の不足には驚きませんが、日清戦争の講話のために来日した李鴻章ってアホな右翼に銃撃され左眼下の頬に弾丸を受けたという災難にあったんですね。大津事件は有名だけど、これは知りませんでした。

 大英帝国は小さな戦争の積み重ねで形成されたが、日本も終期の曖昧な戦争を戦った、というあたりも、なるほどな、と。

 ちなみに、日本の軍費は2億円で、1893年度の一般会計予算8452万円の倍以上。これを内国債で賄うために地方自治体の行政ルートで町村長に強制割当を行ったそうです。また、こうした地方行政ルートは、もちろんカネだけでなく、人員の動員システムも担っていました。そこが清との違いだった、と(p.201)。

 日本は下関講和条約で清から3億5600万円を得て儲るなど、うまくいくときはなんでもうまくいきます。一方、清は賠償金を自立で捻出することができず外債依存の泥沼に、陥ります(p.252-)。さらに清にしてみれば多少、西太后がちょろまかしたものの、膨大なカネかけて建造した北洋艦隊を安い水雷艇で沈められ、残ったいい軍艦は拿捕されて、台湾失って、賠償金取られたんだから、たまんなかっただろうな。

 沖縄も独立目指した勢力が福建省に逃れたけど、日清戦争後の台湾接収に際しても、反対して独立した勢力は、対岸の福建省出身者が多かったらしいけど、客家の伝統なんですかね。


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