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October 26, 2013

『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』

Yamagata_aritomo

『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』松元崇、日本経済新聞出版社

 山縣有朋というと椿山荘となっている豪邸に居を構え、7代目・小川治兵衛に作庭を依頼して無鄰菴をつくらせ、陸軍を支配し、死後、その長州閥は永田鉄山らによって破壊されるも陸軍は日本そのものを破滅に導いた、というネガティブなイメージですが、少なくとも松元さんによると、優れた江戸時代の自治制度を本格的な議会政治を準備する土台として発展させようとしていた、非常に現実主義的な政治家となります。

 本人は一介の武弁だと語っていたそうですが、日露戦争後にアジア諸国から植民地支配からの独立を目指した留学生が日本に多く集まるようになると、英仏との友好関係を重視して弾圧するなど、マキャベリ的な現実主義で対応します(p.173)。

 この本を読んで、大きく見方が変わったと思うのは、江戸時代の自治制度の優秀さ。明治維新が欧米列強の圧力に晒されながら大改革を短時間で成し遂げられたのは、江戸時代以前からの確固たる自治の基盤があったからだ、というんです(p.3-)。そして、それは住民自治を基盤とした分権的なものだった、と。臨時的な費用について長百姓集合相談の上決めていたので賄賂が地域行政から排除されていた(p.18)、というのも、ほとんどの開発途上国とは違って、賄賂による弊害が少なかったことで国家建設には圧倒的に有利だったと思います。また、昭和11年の段階で地方吏員47万人のうち34万人が名誉職だったそうです(p.7)。

 山縣は日本の伝統的なコミュニティを土台にして西洋諸国のいいとこ取りをして地方自治の基礎をつくったんですが、これによって日清戦争後の臥薪嘗胆の時期に地租増微という大増税を行って帝国海軍をつくることができたんだ、としています。松元さんによると、これは高橋是清の外債による満州派兵軍への食糧弾薬の補給と合わせて日露戦争の立役者的な功績だった、と。しかし、明治31年の隈板内閣で行われた猟官活動(あたかも群犬の肉を争うがごとくby徳富蘇峰)を懸念した山縣が文官任用令を改正することでこうした動きを封じると同時に、地方政治への興味を失っていき、明治32年の改正では郡を山縣閥による支配の道具としていきます(p.138)。

 こうした変身は星亨による利権政治に反発したたためで、山縣は政党政治の堕落から立憲政治を守ることを優先していくようになります(p.161)。しかし、星亨を継いだ原敬とは互いに認め合う仲になっていくというんですから、少し不思議。その原敬も暗殺され、山縣が育てた軍閥があまりにも強力になり、やがては立憲制を壊してしまったのは悲劇です。しかし、松元さんによると山縣直系の桂太郎、寺内正毅、田中義一、宇垣一成は軍縮にも取組んだ良識派であり、2.26などの背後にいたのは反山縣派という構図になります(p.275)。

 大久保利通も山縣有朋も江戸の自治制度を優れたものとして尊重したそうですが(p.96)、そうしたことが落語があまり風情を変えずに継続して演じられてきた原因なのかもしれませんね。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』から、当時の米国における法律家の立場が古代エジプトにおける神官並みだったのと対比して、遠山の金さんの地位もそのぐらいだったみたいな感じで書いていくところも面白かった。

 ちなみに、フランスの市町村制度は、革命以前からあったカトリック教会の教区を起源としているから数が多く共同事業のための協力機関が設けられているんだそうです(p.85)。また、イギリスではサッチャー時代に大ロンドン市が歳出抑制策に反対したために廃止されたほど中央集権的だそうです(p.149)。

 日本の場合、国も県も市町村も総合行政機関だという今の制度は明治21年に作られたんだそうで、いまも全くアウトソーシングは進んでいないのは困ったもんです(p.107)。明治21年の市町村大合併によって、国も県も市町村も総合行政機関となったことは、今にもつつながる役割分担の喪失という結果も生んだわけですね。

 また、明治時代のイメージの修正として、当時は農業国だったというのを改めてアタマにたたき込むこともできました。なにしろ、納税者に与えられる選挙権も新潟の方が東京より多かったというんですから。だから、明治政府はカネが必要になると、地方から財源を吸い上げ、それで戦艦なんかもつくることができたわけですが、やがてそうした搾取は地方が疲弊するところまでいってしまった、と(p.11)。昭和5年には教員給与の未払いが全国の1割の市町村で起こるようになっていきます(p.247)。

 特に沖縄ではソテツ地獄と言われるような苦しい状況となり、そこからサイパンに移住した人々が多かったことから、太平洋戦争末期のサイパン島陥落では、沖縄出身者が多くなった理由だそうです(p.226)。

 とにかく、すでに明治29年の段階で、地租の国家収入に占める割合は50%を割り、大正末には6.6%まで下落していったそうです。ちなみに、増大する教育費にどう対処するかが、地方財政における最大の課題だったそうで、さらには衛生行政も重要なテーマとなっていきます。

 そうしている中、戦争関係費の急拡大で、兵役や戦死者への対応が市町村に命ぜられるようになり、昭和15年には今日の地方交付税制につながる地方分与税が導入されます(p.280)。さらに、住民への協力が必要となる行政が多くなってきたので、町内会の力も大きくなっていきます(p.289)。

 子どもの頃から都心に暮らし、都心で働いてきましたが、「なんでこんなに町会って強いの」と思うことはしばしばでした。しかし、ちゃんと理由はあるんですね…。

 東京で神輿が盛んになったのは、山車は準備が大変なのに対して、神輿は集まった人間が担げばいいからというのも、なるほどな、と(p.148)。東京は日露戦争後の不況で40%もの人口減少が起こり、準備が大変な山車は用意できなくなってきたというんですね。

 その後、山縣は地方自治に見切りをつけるんですが、山縣に見捨てられた後も原敬、後藤新平、高橋是清らによって自治を充実する試みはなされます。しかし、当時のGDPの三分の一を奪い去った関東大震災によって地方自治の発展は困難になった、と。

 廃藩置県に際して西郷を説得したのは山縣で、もし聞き入れなければ差し違える覚悟だったというのは知りませんでした。ちなみに1県は80万石を基準としたそうです(p.68)。

 松方デフレによって多くの農民が没落し、その後の米価の上昇で豪農層が大きな利益を得たという見取り図もなるほどな、と(p.59)。ちなみに、西南戦争によるインフレ解消に外債を募集しようとしたら、それによって植民地支配されるぞ、と明治天皇にアドバイスしたのが、日本へ初めて来日した米国大統領であるグラント将軍だったそうです(p.75)。

 昔の地方議会では、納税額の多い順から半分までを一級選挙人として、その人たちが、議員定数の半分を選出できたそうです(p.115)。市町村会が納税者という株主で成り立っている納税者集会だと考えれば、なるほど、といえる仕組みですよね。また、こうした半数改選は事務に熟練した議員を確保するためだというんですから、なかなか考えられていたと感じます。三分の一ずつという等級制度のバリエーションもあったそうで(p.114-)。

 日露戦争によって一時中断されたが、国による直轄事業で赤レンガを含む横浜の新港埠頭が整備され、後背地に三菱重工、東芝、日本鋼管、味の素、日本石油、麒麟麦酒などの工場が建設され、第一次世界大戦による好景気で港湾収入も好転し黒字になっていった、というのは知りませんでした。

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