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July 15, 2013

『私の「本の世界」』中井久夫、筑摩文庫

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『私の「本の世界」』中井久夫、筑摩文庫

 ちくま文芸文庫の「中井久夫コレクション」の最終巻が『私の「本の世界」』。個人的なことですが、前半のヤマ場であるヴァレリーについてのまとめたところを読み終え、書評を集めたところを読んでいる途中で、本をなくしまして、しばらく通勤に使っている電鉄会社から発見されるのを待っていたんですが、出てきませんで、ページを折ったところも、書き込んだメモもなくしてしまいました。

 ということでヴァレリーのあたりはうろ覚えで…。

 にしても、凄いですよね、高校生ぐらいでヴァレリーを原文で読み、詩を諳んじていたというんですから。恥ずかしながら、ぼくがブァレリーを読んだのは大学生で、しかもカイエの翻訳を一巻の途中で投げ出しているんですから話になりません。「まあ、ヴァレリーぐらい読んでおかないと」という中途半端な教養主義で手を出したんですが、中井先生の場合は、敗戦はしたが教養では欧米に負けるものか、という個人的な叛乱から出発しているんで、志も違います。

 「I ヴァレリーについて」は1)ポール・ヴァレリーと青年期危機2)船と海とヴァレリー3)ヴァレリーと蛇4)ヴァレリーの「ロンドン手帳」を眺める―という構成になっています。

 後に「若きパルク」を書くヴァレリーですが、それは「ジェノアの夜」と呼ぶ精神的な危機を脱して30年近くたった後でした。その精神的危機は20歳の頃ですが、その前年、才能を認められたジッドと親しく交際し、パリに呼ばれ《二人は並んで横たわり、まんじりともせずに一夜を明かした》であろうという経験をします。《おそらくジッドはリードに失敗し、ことは不首尾に終った》のだろう、と(p.24)。ジッドは誘いを断られた法学部の試験間近なヴァレリーに「(文学の)仕事をしていないのではないか」などと追い打ちをかけ、ヴァレリーはノックダウンされ、超覚醒状態に陥り、自殺を図ろうとまでします。

 ヴァレリーは法学部の試験には合格しますが、気分転換に訪れた母の故郷のジェノアで、大家族的なもてなしをうけながらも生涯の大事件とする「ジェノアの危機」の夜を迎えます。後年の詩「デルフォイの巫女」から読み解くと《非常な超覚醒状態である。超限的な孤独の中で、過去も未来も一点に収斂し、一望のもとに見渡せる思いであり、この強烈な「現在」の中でさらに下界と内面とか極限まで照応し合って、ついに稲妻のはためきと観念の奔逸とが呼応し、思考は稲妻のようにむげに分岐し、時には混じり合って一つのものになろうとし、時には決定的に分裂したどあろうということである》という状態ではなかったと中井先生は推察します(p.33)。

 そしてヴァレリーのカイエの絵から精神分析を試み、彼のトレードマークともなった蛇を分析します。

 最後の「あとがき」でも、ヴァレリーは《私の終生の勉強の対象であった》として、さらに書き足してくれます。嵐の夜の後、片思いのロヴィラ夫人を劇場で見かけ、友人が仕組んだものと思い込んでパニックを起こしかけます。古典的な統合失調症の症状学では、《ここから危なっかしい体験が始まる》シチュエーションだそうです。そして、英国での自殺未遂などを含む大沈黙の時代に入っていく、というヴァレリーの生涯の見取り図を得ることができました。

 後は箇条書きで…。

 西欧人は肩が凝らないが、実際は背中全体が凝っており、《身体は精神に比べて悪魔に近いと観念しているから》自覚がないのだ、という土居健郎先生の解説にはなるほどな、と(p.124)。ただ、ぼくはマッサージを少しやるんですが、白人の筋肉は日本人の筋肉とあまりにも違って硬すぎて指が入っていかない、という個人的な体験も付け加えたいと思います。

 この本をなくしたということで『「昭和」を送る』も並行して読んでいたんですが、大昔、渋谷の大盛堂の階段に飾られていたお勧めの本が、ずっと土居健郎『「甘え」の構造』だったことを思い出しました。いま、手元にないので、取り寄せようかな…。ついでに、『私の「本の世界」』書評でバリントに関するものが多いのは、欧米での「甘え」概念の受容者がバリントだったからなんだな、と。

 シュレーバー『ある神経病者の回想録』あるいは『シュレーバー回想録』は読んでみたいなと、思いました(違いは邦訳の題名だけ)。

 《論文を読後感によって二つに分け「なるほど」型と「それがどうした」型》に分けられるというのはもなるほどな、と(p.155)。これは山口成良『精神医学論文の書き方』にあるのですが、その中に紹介されているエピソードで1960年代に国際雑誌に論文が受理されたが、編集者からの返事に「converting Letterを送れ」と書いてあって、それが「よろしくお願いします」という添え手紙を同封せよという意味だと東大(あるいは京大)の医学部でもわからず《編集者に問い合わせればよいのに「それは国辱だ」というボスの大時代的な横槍が入ったりしてとうとう幻の論文になってしまった》というのがあります。この50年間の英語教育については、いろいろ問題はあるかもしれませんが、とりあえず、国際化によって情報量が格段に増えたことで、こうした問題は起こらないにようになったのかな、と思いました。

 「子どもには一週間は永遠に等しい」というのもなるほどな、と(p.178)。

 また、エレンベルガー『無意識の発見』は上下巻の大部な本ですが、この夏休みに、読んでみようと思いました。

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Comments

英語には時制がある。英米人には意思がある。意思は未来時制の文章内容である。文章には意味がある。矛盾があれば、指摘できる。議論の対象になる。議会での意思決定が可能である。
日本語には時制がない。日本人には意思がない。が、恣意がある。恣意は文章にならない。小言、片言、独り言の段階で終わる。意味がないので議論の対象にならないが、談合の題材にはなる。一座の者が首を縦に振れば決着する。以心伝心である。これは、勝手な解釈というべきか。議会には、決められない政治がある。
拙い議会政治の抜け道として、日本人には、阿吽の呼吸・以心伝心が必要である。恣意のぶつかり合いでは、どうにもならないから、とりわけ和をもって尊しとなす。いつも静かに笑っている。このような言語状態では、日本人の主張に外国人から理解を得ることも難しい。

‘今ある姿’ (things-as-they-are) は、現実の姿である。過不足なく成り立っている。
‘あるべき姿’ (things-as-they-should-be) は、非現実の姿である。非現実の話も、過不足なく成り立たせなくてはならない。非現実の内容を過不足なく成り立たせるためには、文章が必要である。日本語には時制がない。遠未来・遠過去などの非現実を表す文章はない。だから、過去は迅速に風化し、未来は一寸先が闇に見える。日本人の未来の話には筋がない。我々は、以後も何処にも移動しない。鎌倉右大臣ではないが、’世の中は、常にもがもな’ (世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ。) である。天下泰平の世の中。現在に関しても場当たり的な発言をする。文章ができていない。歌詠みのようなものか。

現在の地球は英米の世の中。相手は、’我々は何処から来たか。何者であるか。どこに行くか。’ を考えた上での提案をしてくる。ちょうど、インド人が、前世・現世・来世へと考えを移動させてゆくようなものである。日本語脳の脳裏では、過去の内容・現在の内容・未来の内容をそれぞれ独立の世界として展開させることが難しい。これらの命題は、英語の時制 (過去・現在・未来) に対応している。我々日本人にとっての眠りを覚ます上喜撰 (蒸気船) となる。日本人が、何の当てもなく、否定形を駆使して、消去法の一本槍で応戦していたのでは、彼らも取りつく島がない。我々は、彼らと考えを共有する友達にもなれない危険な状態を続けることになる。我が国は、世界の中にあって、世界に属さず。

我々は、いつまでも無哲学・能天気ではいられない。我が国の伝統芸術の保護育成のために日本語に磨きをかける一方、有用な議論を盛んにするために、英語にも磨きをかける教育も必要である。さすれば、日本は、鬼に金棒の国になる。英文和訳の習熟は、この目的には役立たない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

Posted by: noga | July 17, 2013 at 06:04 PM

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