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June 27, 2013

>『橋本龍太郎外交回顧録』

Hashiryu

『橋本龍太郎外交回顧録』五百旗頭真、宮城大蔵、岩波書店

 橋龍は間近に見た政治家の中では、もっともいけ好かない印象を持ちました。マイクを持つとにこやかに語るけど、裏にまわれば「怒る、威張る、拗ねる」で、しかも執拗でした。政策通とは言われたものの、それは厚生省どまりなんじゃないでしょうか。国鉄改革をやったというけれど、それは三塚博前大臣がほとんど完成させた上でのことであり、あの時、それ以上三塚博にやらせておくと、人事権や利権が全て彼に行ってしまうということから、9割方済んだところで大勲位が交代させたというのが実情でした。大蔵大臣も長くつとめましたが、首相になったら結局、大蔵官僚に推しきられて消費増税をやって景気を悪化させ、自らも選挙で大負けすることで退陣し、日本経済も20年を失うことになります。趣味はカメラで重たいのをいつもぶら下げていましたが、企業などに大伸ばしして贈ったのを見ても腕は…という感じでしてあまり好印象は残っていない。

 ということで、この本を読むまでは、戦略的な外交を志向していた橋龍というイメージもなかったのですが、確かに普天間返還、エリツィンとの劇的な日ソ関係の改善など、注目に値すべき試みを残していたんだな、ということがわかります。

 そして、それは第二次大戦でお亡くなりになった日本兵の遺骨収集から始まり、アジアに対する環境対策や文化面での支援などをベースにしていたというのも意外でした。《日本の場合は寄生虫をほとんど制圧した数少ない国です。ところがその寄生虫を駆除するためにやり過ぎたのが、川をコンクリートで巻いたことです。媒体となるミヤイリ貝(日本住血吸虫の中間宿主)の生息できない環境を作ろうとコンクリートで巻いて住血吸虫は絶滅させたわけですが、その後、できるだけ早くコンクリートを剥がさなければいけなかった。気がついたらメダカがいなくなり、タガメがいなくなった》、高度成長期に気をつけていれば止まった環境面での負の経験をアジア諸国に伝えることは《日本にしかできない、一つの国際貢献だと思います》というあたりはいいな、と(p.61-)。

 アジアとはヒマラヤなどの登山経験からも早くから独自ルートを持っていたんでしょうかね。もっとも、ヒマラヤ登山をしている最中に政局になって…なんていうこともあったようですが。

 APECの中小企業大臣会合の時には議長として「日本の場合は徳川時代からの職人国家の部分がずっと日本を支えてきたと。そして空襲でめちゃくちゃにぶっ壊されたあとでも、職人の腕は残った。だから金型でも試作品作りでも、裾野の部分を自前でやれたということはすごく大きい」と語り、部品を輸入して組み立てるだけ産業構造が変わったと思ったら危険だ、と語っていたそうです。結局、マレーシアぐらいしかわかってくれなかったとは語っていましたが(p.95)。

 笑ったのはエリィツィンと気が合ったというあたり。デンバーサミットで《「お前、気に入った。今日からミサイルの標準を日本からはずす」というので「冗談じゃない。いままで付けていたのか」というので大笑いになった》というのは初めて聞きました(p.82)。

 結局、二人とも経済政策が失敗し、失脚するんですが、もしかしたら、日露平和条約が、国境線をエトロフの北の上に引いてもらえれば、施政権は当分、認めるという形で結ばれていたかもしれません。そしてG8の中で、国交が正常化していないのは日露だけ、という状態が続いています。ちなみに、橋龍がロシアとの外交に熱心だったのは、ロシアにアジアの顔を付けさせ、中国を牽制するためです。そのためにはドイツのコール首相に「ロシア支援はドイツだじゃ大変だろう」と口説いて仲介の労をとってもらったそうです。

 対ロシア外交は橋龍の華だったかもしれません。

 凄いと思ったのはふたつ。

 イライラ戦争時、海上保安庁の巡視船をホルムズ海峡にタンカー護衛で出すみたいな話しになって、当時の服部経治事務次官が、泣きながらそんな危険なところに職員は出さないと止められたそうです。それでも押し切ってやろうとしたんですが、中曽根内閣の後藤田官房長官が「閣議にかけない」と反対し、それを説得しているうちに被害が減り、海保の船を出さないで済んだそうです(p.18)。

 海保の船は分厚い装甲版で覆っているのはエンジン部分だけで、弾が跳んできたら操船で逃げるしかなかったようですが、保安庁職員に「行くか」と問うたところ「海の男が海の男を助けずにすみますか」という壮烈な決意を語る職員もいて、橋龍は感動したそうです。

 本からは外れますが、こうしたことから橋龍は海保の大ファンとなって、行革の時も「運輸省から独立させてやろうか」というサインも送ったといわれています。

 しかし、当時の議論は本当に神学論争で、機雷が前方にあっても左右50メートル離れていたら、所有物不明の物品として無断で処理してはいけないなんていうのがあったというのですから、今は昔だな、と。

 これも運輸省がらみなんですが、大蔵大臣当時、湾岸戦争が起こって、米軍から運輸省に船を出してほしい、という要請が来たそうです。しかし、この要請は外務省が細かなところを見せないため、どんな船が必要かさえ運輸省には分からず大変な苦労をしました。橋龍大蔵大臣のところには決済を求めるために、北米局からの文書のコピーが来たので見たら、リフトからトラックやトレーラが自走して岸壁に降りられるRO-RO船(roll-on/roll-off ship)だった、と。しかし、その電報は「外交の一元化」に固執し、他省庁に「一回そういう癖をつけると」と考えた栗山次官によって、運輸省にみせることが拒否されたというんですから驚きです。

 結局、橋龍大蔵大臣は前の大臣だからというので、国鉄改革を共に担った林淳司次官らを呼びつけて「トイレに行っている間に机の上のものを勝手に読んでくれ」という形で伝えたそうです(p.29)。

 当時、外務省では、いまもテレビなどで偉そうなことを言っている岡本某が「なんで日本の海運会社は協力しないんだ」と勝手なことをほざいていたんですが、船の種類も知らせず仕舞いで、最終的に佐藤國汽船が応じたにもかかわらず、出港前日になっても行き先を教えないということもあったそうです(p.30)。ヒドイもんですな。

 ロシアやオーストラリア海軍と海自の合同訓練をやると日本側に能力があることがわかったなんていうあたりも印象的。ペルシャ湾の掃海作戦でも各国の軍隊がおっかなくて手を出さないでいた海域を引き受けて無事故で引き上げてきたというのも含めて、日本の海自はまだ米国に次ぐ力量を持っているんじゃないかな、と(p.157-)。

 正直、意外と面白かったです。

 マルチの国際会議で議長を務めるときは、最大公約数を早くみつけて、それで会議に成果を出させるようにしなければならない、というあたりはなるほどな、と。

 また、普天間に関しては、那覇軍港のように県内移設では結局、モノゴトが進まないを知っていたアメリカから言わされた、という側面もあるのかもしれず、本当に成果なのかどうかは、『外交証言録 湾岸戦争・普天間問題・イラク戦争』折田正樹を読んでもわからないって感じですね(p.187)。

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