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January 27, 2013

『中曽根康弘が語る戦後日本外交』

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『中曽根康弘が語る戦後日本外交』中曽根康弘、中島琢磨・服部龍二ほか編、新潮社

 「中曽根は一貫して憲法の改正を唱え、対米自主路線を求めてきた。しかし、その一流の国際主義的感性から、アジアでの戦争は間違いであったとの主張は一貫していた。その見識が、中曽根をひと味もふた味も違った保守主義者にした」という日経での添谷先生の書評を読んで、求めました。

 中曽根さんは首相だった当時、戦後政治の総決算を掲げ、吉田首相以来続いてきた軽武装経済重視の国から、自身の在任中にはこそ実現は出来ませんでしたが自衛隊の海外派遣を目指すような、右派的な傾向を感じていました。しかし、この本を読むと、いまでは中道からややリベラルレフトに寄りなんじゃないかと思うほどで、それだけ日本社会の右傾化が進んだんだろうな、と改めて感じました。

 こうした考え方は、《実際に戦争へ行った総理大臣は私だけです。佐藤栄作のように鉄道省にいて中国に赴任していたのはいるけれど、大平でも戦地には行ってないですね》(p.408)というあたりからきているのではないかと思います。フィリピン、インドネシアへの上陸作戦に参加し、刑余者だった戦友を戦闘で亡くし「友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜」という絶唱を残しているぐらいの激しい戦闘を経験していますから。

 何回か書いたかもしれませんが、加藤六月さんという、ロッキードの灰色高官とされていた方が、同じ選挙区のライバルだった橋本龍太郎元総理に対して「世襲議員は苦労を知らないから、心情的に保守的になりやすい」と語っていたようなのとは対照的に、実体験を基礎に、実にバランスのとれた反米感情、アジアの中の日本というスタンスを築き上げていったんだと思います。

 だから戦前の日本についても、基本的には否定的。そうした考え方は《皇国史観というものはアウト。私は皇国史観というものは偏狭なものだとおもってます》(p.415)というあたりや、昭和天皇に内奏する時も《向こうは人間天皇、こっちも人間総理大臣だという意識》(p.372)だったというにもあらわれていて、それは、一度、戦争で命を的に戦ったことがあるからだろうな、と感じます。

 15年戦争の侵略性についても、《中国に対しては難題を吹っかけ、無礼なこともやった。また、インドネシアをはじめ東南アジアに軍を上陸させて占領し、食糧やら燃料を取りに行った。これも無辜の民を傷つけて侵略だった》(p.79)と明確。だから《アジアの国民に対しては大戦で迷惑をかけた。しかし、戦後の新生日本は平和をめざし、アジアにも貢献して、一緒に繁栄していくようにしたいから、賠償などを通じてアジア復興に努力するつもりだ、ということをずっと言って回りました》(p.130-)という姿勢につながるのかな、と。

 そして東京裁判についても《向こうが百点で、こっちが零点だというような判定はおかしい》と一方的だとはしながらも《ああいう裁判をやられるだけの悪行を大東亜戦争、あるいはそれ以前に日本が行ったことは否定できない。これは我々も反省しなければならない点》(p.80)としているのは、非常に納得的だと思います。

 太平洋戦争で一方的にやられたという体験もあり《アメリカがベトナム民族に対して、枯葉作戦など圧倒的な軍事力で好き勝手をやっているのに対して、私はアジア人の一人として、たいへん反感を持っていました》(p.167)という感想を率直に語るのも、好感が持てます。

 中曽根さんは日本の首相として初めて「ロン・ヤス」のような親密な関係を米大統領と結ぶことができたわけですが、それが可能になったのは、まずアジアを固めたからだったというんですね。首相在任当時の中国の指導者は共に後に失脚した胡耀邦と韓国は全斗煥。

 韓国を訪問した際の晩餐会では全斗煥大統領に対し「チョンドゥファンテートンニョンカッカ」と呼びかけ、スピーチの1/3を韓国語で語ったそうで、韓国の大臣の奥さんが涙ぐんでいた、なんていうエピソードを紹介しています(p.312)。

 また、自身の靖国神社公式参拝などもあって失脚した胡耀邦に対しては、《中国のような全体主義国家では、中枢での権力闘争の結果として、地方で下のほうが冷や飯を喰うという、いわゆるオーバーシュートが見られる》(p.465)と残念がっています。

 ともかくも当時はまだ続いていた冷戦の中、対ソ連を見据えて、日中韓の関係を経済協力をテコに強化していった中曽根外交をアメリカが評価。同時にインドネシアを初めとするASEAN諸国との交流も太平洋戦争の反省の上に立って進めていったことが、サミットの記念写真でも真ん中に写ることができるようになった要因なのかな、と。

 中曽根政権の5年間というのは、いま考えてみると、日本の相対的な国力が最も高かった時代じゃないかと思いますが、実際、中距離核ミサイル削減交渉の中で、削減されることになったソ連のSS20を極東に持ってくることに断固反対して、ヨーロッパがいいならそれでいいじゃないと妥協を図ろうとしたミッテランなんかが言い返せないぐらいの主張をしたというんですから、まあ、話し半分に聞いてもたいしたもの。

 事実上、日本の総理大臣として首脳外交を初めてやってのけたのは自分だ、という自負も宜なるかな、と思います(p.329)。

 そしてロン・ヤス関係の底辺に横たわっていた構図というのは80年代に、アメリカ側の戦略が、それまでの妨害阻止という消極的な姿勢から《ソ連がオホーツク海に配備していた戦略ミサイル原潜(SSBN)を牽制し、破壊するという攻勢的目的にシフトしたわけですが、その際、この攻勢作戦における自衛隊の役割は、ソ連の潜水艦、水上艦艇、バックファイア爆撃機による防御網を米軍が突破するのを、側面から援助・補助することでした》という転換にうまく日本もついていったことにあったのかな、と。そして《戦術的には、海上自衛隊が対潜水艦戦(ASW)、洋上防衛(対艦ミサイル迎撃)、航空自衛隊はバツクファイアなどの迎撃を担う》というものだった、と(p.289)。

 中曽根さんは一国、二国の関係では安全保障は解決できないとして東アジア集団安全保障機構みたいなものを構想として常に持っていたそうですが、同時に、中韓との間に領土問題を抱えていることも意識しています。それも、日韓基本条約締結時の竹島密約について触れているように《竹島は日比谷公園より少し大きな面積にすぎないが、そんな小さな島でも民族間の感情的対立の根元となる。古今東西の歴史を見ても、領土問題はそうした性格を持っています。両方譲れない問題だから、棚上げが賢明だろうという判断が働いたんだろう》(p.162)というな皮肉な目線で。

 そして、同時に《アジアにおけるアメリカの最大の関心事は常に中国だったともいえる。先の大戦だって中国問題に端を発していることからもわかる》(p.222)という視点も忘れない、と。

 中国が台頭する中、アジアをどう固めるのか、という問題の解答は、まだ方向性すらわからない状態だと思います。特に《外交は内政なのです。だから、江沢民は国内的地位保全のために、あのようなスピーチをしたのだろう》(p.536)というよな事情を相手側が抱えている中ですから。困ったものです。

 中曽根さんの俳句は、なかなか良いのがあって、「暮れてなほ 命の限り 蝉しぐれ」とか、この本にも収められているボンサミット時の「言うべしと ボタン押す指 汗ばめり」など歴代の総理大臣としてはいい句を残していると思いますが、サミットでも、欧米の首脳たちよりも、旧制高校育ちの自分の方が、教養は上だとばかりに、出征したときにも持っていったという聖書論議を戦わせたりするあたりは、中井久夫先生が、敗戦後、健気にも切手のコレクションを売ってラテン語を学び、西欧古典さえものすれば漢籍の知識がある分だけ、こちらの教養の方が上だ、みたいなことを考えていたなんていう逸話を思い出します。

 あと、キッシンジャーが、ロッキード事件について、オイルメジャーに挑戦した田中角栄首相を逮捕させたのは間違いだったと発言していたというのには驚きました。《キッシンジャーはよく話したなと思いましたね。「田中をやったのは間違いだった」という表現でした》(p.237)。

以下は日経の書評。

「国家を思う哲学と柔軟な現実主義」

 戦後日本の政治と外交について、中曽根康弘ほど突き詰めて考えてきた政治家はいないだろう。本書は、7人の日本外交研究者による29回にわたるインタビューを元にしたオーラルヒストリーである。その回想は、国家を思う中曽根哲学の真髄(しんずい)を示しているのと同時に、内外の諸条件の変化に柔軟に対応してきた中曽根の現実主義も醸し出している。

 戦後の日本外交は、戦後憲法と日米安保条約により規定されてきた。そして、その背景にはあの侵略戦争の歴史があった。日本の自立を希求する言説は、しばしば侵略戦争の歴史を正当化しようとする。中曽根は一貫して憲法の改正を唱え、対米自主路線を求めてきた。しかし、その一流の国際主義的感性から、アジアでの戦争は間違いであったとの主張は一貫していた。その見識が、中曽根をひと味もふた味も違った保守主義者にした重要な理由であったように思う。

 中曽根は、日本の核オプションと非核三原則の関係に関して、「理論と現実は別のものだ」と語る。また、かつて吉田茂の対米依存を批判した中曽根は、政権を担当するころには「日本の防衛政策の核心には日米関係がある」との理解に至る。本書から明らかになるのは、国家主義者を自負して政治の場に身を投じてから、その理論すなわち保守的な信念を、抗しがたい現実と両立させようとした中曽根の成熟した変化である。

 中曽根は、1970年代初期以来の持論である「非核中級国家」を、「戦争体験から生まれた反省の上に立った、戦後日本の理想であり、現実でもありました」と述べる。そこに、中曽根が辿(たど)り着いた「理論と現実」の均衡点があるといえるだろう。中曽根にとって、その国家像と憲法改正は決して矛盾しない。

 大国論を否定する感性から日本の自立を求め、日米関係とアジアとの共生を両立させようとした中曽根外交は、完全には実を結ばなかった。中曽根はアジア外交がやり残した課題であるという。私たちは、そこから日本外交を考えるにあたっての深い教訓を読み取らなければならないだろう。

(慶応義塾大学教授 添谷芳秀)

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