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November 22, 2012

『落語の国の精神分析』

Rakugo_psychoanalysis

『落語の国の精神分析』藤山直樹、みすず書房

 精神科医というのは、カネのかかる設備はいらないし、製薬会社からのキックバックも多いという感じで、やたら開業するヒトたちが増えているようですが、精神分析医というのは少ないようですね。日本では30人ぐらいしかいないそうです(p.11)。なんでも、精神分析は週4回以上、セッションを行わなければならないということが国際精神分析学会で決められているそうで、安くないおカネを払える人が少ないというか、日本の場合は、そこに価値を求める人が少ないんでしょうね。

 そんな精神分析医で落語好きな藤山直樹先生が、落語のネタの中に生きている江戸っ子たちを精神分析するとともに、最後に立川談志師匠について書き、弟子の談春師匠とも対談するというのが、この本。考えてみれば30人ぐらいしかいない中には北山修さんもいるわけで、今年は日本の中での2/30の方々の本をよく読ませてもらった1年となりそうです。

 扱われているネタは「らくだ」「芝浜」「よかちょろ」「文七元結」「粗忽長屋」「居残り佐平次」「明烏」「寝床」。そしてネタということではなく与太郎モノの主人公である与太郎についても一章が割かれています。

 「らくだ」は、いまで言うパーソナリティ障害的なヤクザの半次が屑屋に立場を逆転される噺ですが、実は屑屋には死体をなんとも思わないという「あっち側」にいた人物だったという分析にはうなりました。わざわざ世間を踏み越えて「あっち側」に行かなくても《酒を飲まないときも、小市民であるかのようにふるまいながら、実は彼はひそかにあっち側にいた。人格の深く本質的な亀裂がそこにある。精神分析でいう「アズイフ(as-if)」的な人格部分はきわめて世間に同調的で小市民的であったにもかかわらず、彼のもうひとつの人格はまるで正気ではない》と(p.37-)。

 だから狂気の人格を顕在化させてからのふるまいは常軌を逸しているわけで、生きている乞食坊主を焼いてしまうということも含めて《屑屋にとっては死体と生きている人間とは本質的に区別がないのである。というか、彼にとって生きている人間はいない。彼は生きた人間の世界にいるのではなく、死の世界にいるのでもない。より本質的には彼は死体の世界に生きているのである》ということが浮かび上がる、と(p.39-)。そして演劇と違って生々しい死体をずっと舞台に置く必要がない話芸の落語だからこそ、こうした噺がパフォーミングアートとして成立するんだ、というあたりも、なるほどな、と。

 「芝浜」のモチーフは、人間は変れるか、ということ。《人間が繰り返すものでり、めったに変わらないものであることは間違いない》《人生はくり返しに埋め尽くされている》わけですが、時々、本質的な変化もする、と(p.44)。しかし、アルコールとのしがらみを越えて人が幸せになることは大変であり、江戸っ子たちと同じように《私はこの噺を聴くたび、片方では涙を流したり、大笑いしたりしながら、この噺が納得いくものかどうかを絶えず考え》ざるを得ないような内容です(p.53)。

 「芝浜」の亭主は、大金の入った財布を拾うことで、酒浸りの病的ひきこもり生活をずっと続けることが出来ると小躍りするわけですが、おかみさんによって、それは夢だということにされ、このまま酒を続けていれば生死も危ういと感じる「底つき」体験をします。そして、そのリアリティが凄いわけです。このため、談志師匠は、それまでの三木助バージョンを少しずつ変えていって、この亭主の「底つき」体験がより本質的なものであると感じさせる方向にもっていったというあたりは感動的です(詳しくはぜひ読んでください)。

 「居残り佐平次」なんかも談志師匠は大きく変えていますが、それまでの先人が演っていた通りにやるということを変え、疑問に思ったことは変えてしまうということが、いかに落語界では凄かったかというのは《それを談志がやったから嫌われたたんです》という談春師匠の言葉を聞くまでは、思いが至りませんでした(p.256)。

 しかし、こうした「伝統を現代に」という方向で噺を変えていったから、談志十八番はいつも新鮮であり、若い客層も引き付けていったんだと思います。

 筆者が「よみうりホール」で談志師匠の「芝浜」を聴いた帰り、七階からの階段を降りていく途中で《おそらく高校生のカップルが「いいものを聞いたね」「一年の嫌なこと忘れちゃうね」と話しているのを聞いて、何か幸福な気持ちになったことを思い出す。世代や年齢を越えて、談志の「芝浜」は希望のようなものを与えていたのだ》というあたりは感動しました(p.61)。

 これ以上書くことはネタバレに等しいことなので、後はぜひお読みいただきたいのですが、最後に「立川談志という水仙」という章から引用して終わります(p.217)。

 ある独演会の冒頭、談志はそのホールが大きなホールでいつもの自分の客でない客が多いのではないかということに懸念をもったのか、ぐるりと見渡して、「今日、俺の落語、はじめて観に来た奴ァどれくらいいるのかな。手ェ上げてくれよ」と切り出した。かなりの人数が手を上げたが、そのなかに車椅子の青年の介助者とおぼしき女性もいた。その青年はしばしば談志の会で見かける人だったが、談志は彼に、「お前、初めての人を連れてきたのか。いくら片輪だって、やっていいことといけないことがあるぞ」と言った。その車いすの青年は、心底嬉しそうに笑った。私はこの青年も談志から大きな勇気をもらっている人なのだろうと確信した。

 このときもそうだったが、ときおり私は、彼を閉じ込めている死の陰鬱のなかからときおり躍り出る生の閃光に、自分が灼かれるような感覚を覚えた。私が自分が生きていてもいいのではないか、と感じることのできる瞬間なのだった。

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