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September 23, 2012

『浄瑠璃を読もう』

Joururi

『浄瑠璃を読もう』橋本治、新潮社

 仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』の三大狂言については、前回、日経の書評が主に取り上げていたので、今回は、後半の『本朝廿四孝』『ひらかな盛衰記』『国性爺合戦』『冥途の飛脚』『妹背山婦女庭訓』に触れた後半について。

 橋本さんは近松門左衛門のことを後半になって、しかも弟子の近松半次の『本朝廿四孝』と『妹背山婦女庭訓』に挟んだ形で『国性爺合戦』『冥途の飛脚』を取り上げています。

 『国性爺合戦』も歌舞伎では「紅流し」を合図に国性爺が「南無三!」と大見得を切るような場面ぐらいしか印象に残っていませんが、この堀に紅か白を流すことで合図するというトリックは、『椿三十郎』でも使われており、こんなところも帯に書いてある「わたしたちの心の原型も、小説の源流も、みんな浄瑠璃の中にある!」というコピーを実感できるところです。

 橋本さんが何回も指摘するのは、お姫様というは恋をするためだけに登場する、という役割。そういえば、『本朝廿四孝』でも、歌舞伎では八重垣姫は勝頼の顔に見ほれて御殿の白木にからまってペタリと座るという柱巻きといわれる所作は歌右衛門さんの時代から何回も見物していますが、なんで急になよなよしちゃうんだろう、という疑問は少しあったんですが、「御姫さまは恋するのが商売」ということであれば、なるほどな、と。

 あと、やたら子殺しが出てくるんですが、これは、当時の考えられる限りの悪だからでしょうね。さすがに親殺しは当時の社会通念上許されないということで、その次ぐらいにくる子殺しをざるを得なくなるという状況の中でストーリーを展開させる、ということなんでしょうか。

 子殺しという形而上学的な問題を扱っていますんで、どうしてもストーリーは破綻するというか、むしろどんでん返しの連続を愉しんでもらう、という風になっていきます。これは心中物を禁止された作者たちが考えた苦肉の策のひとつなんでしょうかね。

 『冥途の飛脚』は国立劇場で見物してきました。

 歌舞伎とは違うということを、この本で初めて知りましたが、あまりにも複雑な主人公たちの心情は義太夫が語るしかないので、歌舞伎の場合は、どうしても単純化せざるを得ないのかな、とも感じました。

 封切りの場面でも、歌舞伎では八右衛門が悪役となって自由になるカネのない忠兵衛を言葉でいたぶるのですが、文楽では八右衛門が道理を諭すにもかかわらず、忠兵衛が勢いにまかせて為替の五十両の封切りをしてしまうというストーリーになっています。

 深い。

 浄瑠璃が小説の原作なら、歌舞伎はそれを元にした映画みたいな感じでしょうか。話しを早く進めないと役者の見所も詰め込めないといけないし、どうしても単純化せざるを得ないのかな、と。

 人形でよかったのが、朋輩が「傾城に誠なし」と語る浄瑠璃に涙を流す梅川たちがいる下の階で、静かに煙草をくゆらす島屋の女将。上手ではリアルな三味線に合わせて、朋輩の人形がが激しく三味線を打ち鳴らしているという対比の見事さ。

 にしても、こんな凄い芸を橋下市長は潰そうとしているんですから、とんでもないことですね…。

 せめて、国立劇場で上演される時には、見物に通おうと思いました。

[目次]

『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望
『義経千本桜』と歴史を我等に
『菅原伝授手習鑑』と躍動する現実
『本朝廿四孝』の「だったらなにも考えない」
『ひらかな盛衰記』のひらがな的世界
『国性爺合戦』と直進する近松門左衛門
これはもう「文学」でしかない『冥途の飛脚』
『妹背山婦女庭訓』と時代の転回点

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Comments

お久しぶりです。橋本治氏に「突っ走るエゴイズム」という短い近松論があって、これは近松(原作!)の<危険さ><過激さ>を指摘したものでとてもおもしろかった記憶があります(新潮古典文学アルバム19『近松門左衛門』)。私もかつて数年ですが仕事で近松関係のことをやっていて、そのとき「近松全集」まで買ってしまいましたが、歌舞伎や浄瑠璃で改作物を見るたびにがっかりしたものです。『冥土の飛脚』の改作もひどいですが、『曾根崎心中』でも勧善懲悪にならないからと、勝手に九平次を捕まえさせる筋書きをつけくわえたりと・・・。
ああ、そうそう。ネストレ28版出ましたね。本文は「catholic letters」しか改訂されませんでしたが。

Posted by: cherubino | October 07, 2012 at 06:41 PM

おお、どーも、お久しぶりです!院本に縛られている文楽と、勝手に役者映えするように変えてしまった歌舞伎というのは、大衆文化としての「生き残り」を考えると面白いですよねぇ…

考えてみると、勝手にヘブライ語からギリシア語に翻訳したり、アラム語で語られた伝承を勝手にギリシア語に変え、それをまたラテン語に変えた方が広く生き残っている構図に似ているように感じました。

28版は注文中ですが、変わったのはヤコ:5,ペテ1:9,ペテ 2:10, ヨハ1:4, ヨハネ2:2, ヨハ3:1, ユダ:3とか聞きましたが、まあ、ああいったものは、変えるにしても無難に行かなければならないでしょうし、バチカン写本至上主義が克服されるまでは、大きな変更は、ネストレレベルではないんでしょうね…まあ、自分で読んでいくしかないと思っていますw

Posted by: pata | October 07, 2012 at 08:13 PM

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