« 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 | Main | 『人生、成り行き』 »

June 22, 2012

『アリストテレスの現象学的解釈』

Aristoteles_heidegger

『アリストテレスの現象学的解釈』ハイデガー、高田珠樹(訳) 、平凡社

 マールブルグ大学で教授職を得るためにナトルプにあてて書かれた、『存在と時間』の原型ともいえる論文が、ナトルプ報告として知られるこの論文。

 ギリシャ=キリスト教的な生の釈意はドイツ観念論の哲学的人間学を規定しており、フィフテ、シェリング、ヘーゲルは神学の出身で、その神学は改革派に属するものだが、ルターの根本姿勢はトマスとボナウェントゥラが神学に提供した概念的な方策に依拠しており、そうなるとこうした神学が設定した生の現存在の理念は、アリストテレスに基づいている、というのが、ハイデガーの問題意識(p.47)。

 こうした西洋人間学の歴史を根源的に遡り、存在論上・論理学上の中心的な構造を浮き彫りにするためには、アリストテレス哲学に関して、根本的な現象学的人間学に定位した解釈が用意されてのみ、成し遂げられる、と(p.49-)。

 アリストテレスにとって、存在とは何の謂いなのかというと、それは「存在とは製作(ポイエーシス)されているの謂い」である、と。

 さらに、存在真実化の様態がテクネーであり、実践的な知である思慮(プロネーシス)と観想的な智慧(ソフィア)が重要な役割を果たす、と。思慮については《その目的のために有用かどうか注視すること》なんて書いてます(p.72)。ものすごく具体的な、接触感のある認識方法だと感じるのは、ユクスキュルの環境世界理論から影響されているからなんでしょうかね。

 ここから《人間の生とは、その都度それぞれ別様で在りうるというまさにそのことによって存在している存在者なのである》(p.75)として、動性の時間的性格も引き出している、と。

 在る、存在するという意味はアリストテレスにとって「製作されてある」ということに存するのですが、在るもので在るというのは、製作する関わり合いにとってだけである、と。

 ナトルプはプラトンに社会改革という視点から接近し、プラトンの『国家』の議論の中心は教育、社会的教育にあるとしているそうです。ナトルプは社会生活の基本要素として経済、統治、教育の三つの活動をあげ、これらの調和的連関があってこそ人間の本質的な展開が可能であると説き、哲人王ではなく哲学が支配する体制が望ましいとしたそうです。佐々木毅先生によると、こうしたナトルプ的な構想を政治に移植しようとしたのがルドルフ・シュタイナーだそうで。

 こうした疑似哲学的な立場からは、ほど遠いとこから、存在を規定しようとしていたバイデガーなのですが、大学総長就任演説の中で「偉大なるものはすべて、嵐の中にたつ」(国家、497D9)なんていうところを引用するのは不思議ですよね。あと、この訳はカッコ良いんですが、誰が訳して人口に膾炙しているんですかね…。どう考えても、こんな訳にはならないと思うんですが…Denn alles Große ist auch bedenklich und, wie man sagt, das SchÖne in der Tat schwer。藤沢先生のように『立派なことは難しい』ぐらいだと思うんですが。

 大きな矛盾を抱えている人の切れ味鋭い処女作という感じでしょうか。

|

« 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 | Main | 『人生、成り行き』 »

「書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/55028011

Listed below are links to weblogs that reference 『アリストテレスの現象学的解釈』:

« 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 | Main | 『人生、成り行き』 »