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June 23, 2012

『人生、成り行き』

Anshi_nariyuki

『人生、成り行き』立川談志、吉川潮、新潮文庫

 談志師匠への思いはつのるばかりで、DVDなんぞも買い集めています。

 どうして寄席に行かなかったんだ、と言われるかもしれませんが、どうも《あんな小汚ぇところ》(p.213)《一番前に座った客の靴下がにおってくるような高座》(p.215)みたいなイメージがあったんですよ。なら、ホール落語でも…という気分にもならないのは、やはり定席の雰囲気がないからで、小綺麗で行き届いた定席という、ないものねだりをしていたのかもしれません。

 それはおいといて、この本は立川流の顧問をつとめる作家の吉川潮さんを相手に、師匠が生い立ちから修業時代、二枚目から真打ちへの昇進、政治家時代、落語協会分裂から立川流創設と時代を追って、自分史を語るという内容。

 大昔に従兄弟から貸してもらった落語の本以外、あまり談志師匠の書いたものを読んでこなかったので、楽しく読み進むことができました。

 職人の叔父さんに連れられて始めて寄席に行ったら、金馬にせよ、小さんになる前の小三治にせよ、右女助にしても《客に向かってきっちり頭を下げること》に感動した師匠は、ずっと丁寧なお辞儀を心がけたそうです(p.27)。

 《小言というのは「不快感の瞬間的な発散」》《教育は「価値観の強制的な共有」》というあたりも鋭いな(p.39)。

 にしても、師匠が前座の頃、落語協会にはしめて27人しか噺家がいなかったというのにも驚きました。その後は増えすぎちゃって、もう弟子はあまりとらないようにしようと話しあったにもかかわらずやっぱり増えすぎちゃって、十人いっぺんの昇進なんていうことでモメるというのは、それこそ「成り行き」でやってきたからなんでしょうかね。まあ、噺家らしくていいのかもしれませんがw

 師匠が、落語とは人間の業の肯定だと定義していましたが、そういった意味でポリティカリー・コレクトみたいなことし言えなくなってしまうのは《人間として一番最低の声を圧し殺すのは別問題》として拉致の家族会に対して「拉致太りじゃねぇか」とか発言するのは、戦後の食糧難の時、庶民が「朕はたらふく食ってるぞ」と言ってガス抜きをしていたのと同じだ、なんていうあたりも良かったかな(p.64-)。

 二枚目時代、キャバレーでのスタンダップコメディで稼いだという話しをだいぶ長く喋っていて、そういえば、小粋な服が似合う噺家というのは師匠ぐらいしか当時はいなかったのかなと思いました。驚いたといえば、三平さんが新婚旅行に行くというのが生意気だということになって、やっと綱島温泉に行けたなんていうあたり(p.101)。

 選挙の時の話では、飯島清から、演説してウケたら、握手攻めなんか適当にこなして余韻を残してさっさと行ってしまわないとダメだとなんて注意を受けたあたりが印象的でした(p.135)。青島幸男の書斎にずっといる選挙戦術に関して《その格好のいいやり方というのが、あたしに言わせれば野暮なんだよナ》というあたりも切れ味抜群(p.143)。角さんからは自民党に入ったというだけで二百万円ぐらい送ってきた、という話しはさすがだな、と(p.161)。

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