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April 02, 2012

『政治の精神』

Politics_mind
『政治の精神』佐々木毅、岩波新書

 このところ、ずっと読ませてもらっているんですが、いいですねぇ…。

 政治には絶望している方々も少なくないでしょう。第二次大戦後の経済にフォーカスしてきた日本を支えてきた保守政党ですが、最終的には自民党に新しい現実にあった政策を打ち出して、実行する能力が枯渇し、それによって初めて本格的な政権交代を実現したにも関わらず、待ち受けていたのは、民主党のこのていたらく。しかし、ここで政党政治に絶望して地方ポピュリストに流れても、結果は同じだと思います。

 《理想が理想である限り、その輝きは消えないが、現実のものとなった場合、その輝きはきえ、欠陥が目立つようになる。民主制も社会主義も市場原理も同じ運命を辿ったというべきかもしれない》と思うから(p.146)。《恣意性が権力と表裏一体となって自己実現に邁進することは、最終的には現実を全てコントロールすること、「モノ」的現実の地上からの抹殺を企てることに他ならない(言い換えれば、物語の完結のためには世界支配が必要になるのである)》というあたりを含めて、なんだが橋下批判として読めるな、と感じます。

 この本自体は政治の精神をギリシア時代から掘り起こしていくという新書にしては大きなスケールを持っています。ナポレオンなども引き合いに出して、近代以降の権力者は、政治的統合を実現するためには、あくなき権力の追求にエネルギーをつくさなければならない、などという歴史の証言も紹介していくのは、直接的には、安倍、福田という政権投げ出しを機に、改めて政治的な精神とはなんだろか、ということを解き明かすことを目指していたから。

 もちろん、民主党への政権交代が明確な政治日程として意識されている時期でしたが、それに対する期待というよりも、新しいリーダー候補を政党政治の中で見つけて、鍛えて本物のリーダーたらしめるというシステムそのものが、二世三世議員ばかりになってしまった自民党では崩壊しており、かといって政権党としての経験がない民主党にも期待できないという予感の中で、今日の惨状をかなり暗く予想していたんじゃないかとさえ感じます。

 さらに丸山真男の「悪さの程度がすこしでも少ないものを選択する」ことの大切さをを改めて強調するあたりも、《政治はベストの選択である、という考え方は、ともする政治というものはお上がやってくれるもの》という意識から抜け出ていない日本の現状を暗く見ている視線を感じます。

 そうなると、日本の戦前のような「体制の精華」のような人物が期待できない中で、ドイツのようなならず者が現われてくるのでは、という暗い予感が『わが闘争』への長い引用をさせたのではないかと思えるほど、しつこく、ビアホール一揆を起こしてならず者どもと拘置所に入っていたときに書かれたこの本について書いています。

 「民衆の心を獲得することは、自分の目標に対して積極的な闘争を指導してゆくことに並んで、この目標の敵対者を絶滅させる場合にのみ成功できる。
 民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見いだし、逆に他者の絶滅を断念することはたとえそれを自分が正しくないことの証拠と感じはしないにしても、自分の正義についての不誠実と感じ取る。
 大衆は本能の塊に過ぎず、彼らの感情は、敵同士であることを望んでいると主張している人々のお互いの握手を理解しはしない。彼らが望んでいることは、より強力なものの勝利とより弱いものの絶滅あるいは弱いものの無条件の隷属である」

 という引用は、現在の日本の地方ポピュリストたちの手法そのものように思えます。ということ、こうした手法を使って、大きな暗い勢力が出てくることへの意識下での不安があったかのようです。

 では、新たな理想を語る勢力に無批判に政治をまかせないためには、どうしたらいいのか、という答えは、ひょっとしてサッカーのサポーターのように、どんどん自分を公共に投入していくということなのかな、とも思いました。

 実は、昨日、久々に味スタに行ったのですが、そこで思い出したのが、この本で紹介されている『失望と参画の現象学』ハーシュマンだったんです(p.171-)。

 果たして政治に参加するという意味での投票行動に合理的意味合いはあるのか、みたいなことを確率論で検討する合理的選択論というのは文系でもウケの悪い分野らしく、けっこう共感している小田中直樹先生も『ライブ・合理的選択論―投票行動のパラドクスから考える』という本でかなり、読ませる工夫をしていたのですが、実は、こうした前向きな解決方法があるんだ…と思ったのが、佐々木毅先生が書いているこの箇所。

 佐々木先生は《サッカーや野球の観戦についていえば、高額な切符と交通費を使い、しかも、かなりの時間を割いて出かけるというのは、どのような費用と便益のバランスシートを想定しているのであろうか。どう考えてもそれより家で寝転がり、無料のテレビ中継で観戦するのが経済的合理性に合致するように思われる。それにもかかわらず、こうした現実が続いているのは、費用と便益との区分けがないか、あるいはこの両者が融合しているからではないか。ゲームへの臨場感もさることながら、そこへ行くまでのうきうきした気分や仲間たちとの試合の予想やそれを機縁とした会話、評価し難い共感と盛り上がりなど、そこには「それ自体意味がある、やりがいのがある」といったことがあるのではないか、それを一度味わった人と味わったことのない人の間には超えがたい完成の違いがあるのではないか。
 A・O・ハーシュマンはこうした現象を「追求と獲得」とが一体となっている行為の世界とし、いわば費用・便益区別論自体が有効性を失うと論じた(『失望と参画の現象学』)。この費用が便益の一部となるような領域の一つとして公的利益に関わる行為があるというのが、彼の見解であった》として、ハーシュマンの著作から引いたのがこの箇所。

 《ある個人が彼を利するような便益を集合的行為から調達する方法は、彼自身の投入量を増やしてゆくこともすなわち彼が信奉する公共政策のために努力すること以外にはない》

 サッカーのサポーターっていうのは、これじゃないかな、と昨日も感じました。なんていいますか、血液をどんどん投入していくドーピングのように自分自身をムーブメントに投入していくサッカーのコアなサポーターまでとはいわないまでも、政治に絶望するより公共に自分を投入していくしかない、みたいな。

 佐々木先生は《多くの人間は現存の社会的・政治的秩序は変革できないし、自分は無力であると思いつつ成長するが、それが社会を良い方向に変えられるように働くことができるし、その目的に向かって目標を共有する人々と仲間になることができるという突然の認識は人を酔わせるような快感を与える》というあたりも、なるほどな、と。

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Comments

pataさん、「費用が便益の一部となる」ですか、なるほど。ハーシュマン『失望と参画の現象学』、読んでませんでした。ベガルタ仙台ファンとして、お恥ずかしい(なんだそれ?)。今度読んでみます(ちなみに、文脈はまったくそれますが、ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』も一読の価値ありかと)。

Posted by: 小田中直樹 | April 05, 2012 at 10:39 PM

小田中先生、お久しぶりです!コメントありがとうございました。
『離脱・発言・忠誠』読ませていただきます。
にしてもベガルタ好調ですね!今年こそはユアテックスにおジャマしたいと思っています!

Posted by: pata | April 06, 2012 at 10:55 PM

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