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March 03, 2012

『高校紛争 1969-1970』

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『高校紛争 1969-1970』小林哲夫、中公新書

 大学生の全共闘運動に関しては様々なジャンルの本はありますが、確かに、高校生の運動に関してまとまった本はなかったのかもしれません。

 著者は1960年生まれというのですから、団塊の世代からは15年離れていて、朝日新聞の読書欄によると全共闘運動にはあこがれていたが、もう内ゲバの時代になっていて、なんの魅力も感じられなかったとのこと。三一書房の『高校生は反逆する 激動の季節をむかえて』など同時代本はありましたが、どうしても、この時代の高校生の運動をまとめたいということで《取材に10年をかけ、全国を回り関係者250人以上に会った》そうです。著者は教育ジャーナリストで『ニッポンの大学 (講談社現代新書) 』とか『東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する (光文社新書) 』の著者。職業というものは、どうしても細かなところにいくもので、こうしたニッチな分野の仕事を続けながら、コツコツとこの本のための取材を続けていたんだろうな、と思います。

 有名人もいっぱい出てきます。小山台高校の高校生だった押井守さん、青山高校の石田純一さん、佐世保北高校の村上龍さん、宮城県第三女子高等学校の小池真理子さん、大手前高校の三田誠弘さん、そして新宿高校の坂本龍一さん。彼らは、みんな高校生の反乱の当事者だったり、リーダー格の人物の側にいて見守っていたりした人たちでした。

 ぼくは押井さんの話にまず感動しました(p.147)。

 《「デモが終われば家族の待つ自宅に帰らざるを得ない。家に帰ればおふくろが泣き、親父と殴り合いになる。家族という小さな社会ではあったが、それでも現実と闘わざるを得なかった」『凡人として生きるということ』幻冬舎、二〇〇八》

 押井さんの場合は都立高校でしたが、それでもやはり、友人のアパートに転がり込んだり大学の中で寝泊まりできた大学生たちとは違うんですね。だから当時の大学生の中には上野千鶴子さんが非難するように保守右翼に転向するようなニンゲンも出てくる、と。『現代思想 総編集 上野千鶴子』で書かれていたことですが、大学生の全共闘では"革命カップル"も生まれて楽しい思いもできるわけですし、大学側も卒業させた方が得だということで、バンバン卒業させるから、やがては髪を切って就職して右派に転向できたわけですが、高校生の場合は、そうはいかない。

 退学させられれば大学受験はできなくなるわけですし、大検に合格するという道は残されていますが、そのためには家族に頭を下げなければならなかったでしょう。そうなると、反乱して退学させられた高校生が自立する道を歩むとすれば、バイトしながら勉強して、なんとか大検に受かり、授業料の安い公立大学を働きながら卒業するという道しかなかったと思います。

 でも、やはり、こうした道は難しかったようで、あからさまには書いていないようですが、いったん大学に入り直して弁護士のなったような人でも、たぶん、いったんは家に頭を下げたんじゃないかな、という感じが行間からうかがえます(第七章)。

 記録として貴重なのは一章から六章だと思いますが、個人的に感動したのは高校生活動家の「その後」を追った七章です。みなさん、もう還暦をすぎているんですが、多くの大学生の全共闘のように、スパッと運動から離れるというわけにもいかず、先鋭的で数が少なかっただけに、自分のやってきたことに責任を持って生きていらっしゃるんですね。

 その責任というのは、いったんは「自己否定」ということを生意気にも口にしてからには、ちゃんと妥協せずに生きていこう、ということなのかな、と。当時、世界はベトナム戦争で揺れていました。日本では沖縄がまだ米軍に占領されていました。そうした人々がいるのに、自分は、つまらぬ受験勉強みたいなことをやって、やがては会社員や官僚となり、矛盾を抱えたままの世界を支える側に立っていいのか、というものだったと思います。

 紹介されている方で愛知県新城市長の穂積亮次さんの話が出てきます。穂積さんは都立小石川高校の活動家。デモで逮捕されて少年鑑別所に送られ、その後も新左翼の活動を続けますが、長期拘留の後、父を介護するうちにその故郷である鳳来町に住むようになり、環境に取り組むNPOの役員となったあたりから、地方議員として担がれ、本人は過去もあるから固辞したのですが、民主党と自民党からも推薦されて市町村合併した新城市長に当選します。小石川高校といえば鳩山元総理も卒業するほどの名門校でしたが、その卒業生のひとりである御厨貴東大教授が愛知県の市長が集まるセミナーで講演した際には、挨拶もしたそうです。

 一年先輩だった御厨教授は、「むかし、ずいぶんお騒がせしまして」と挨拶する穂積さんのことをよく覚えていたようで「教師は活動家を非行少年と同じように扱い、生活指導として接していました。しかし、思想をもって行動している活動家は非行と思っておらわず、何の効き目もなかった」と語っていたそうです。

 このほか、門川大作京都市長、藤縄善朗鶴ヶ島市長なども高校時代の活動歴がある市長です。

 人生の入り口で大きくドロップアウトしたにもかかわらず、こうした人たちが出てきているのは、もともとリーダー的資質をもった人が活動家になり、その活動の中で指導力、交渉力、組織力が培われたのかもしれません(p.262)。

 あと、教師の中にも立派な人っているんだな、と思いました。例えば都立上野高校の森杉多校長(p.116-117)。森校長は上野高校がバリケード封鎖された時も機動隊を入れず、処分者も出さなかったそうです。それは、森校長がノモンハン事件と沖縄戦の経験者だったから。

 街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。 -中略- 国家は自分の誤った都合により、戦争の時は高校生を戦場に駆り立てて戦死させ、それに文部大臣は感状などを与えて扇動するのに、国家が必要を感じない時は、やがて国家を担う学生・生徒の正しい主張を弾圧する。それは学生・生徒を戦死させたと同様の、国家の独善ではないかと思った。安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。
 『戦争と教育』近代文藝社、一九九四

 森校長はやがて練馬高校へ転出させられるのですが、卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と話したそうですが、こういう立派な人がいたんですね…。

 「あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる」

 今の大阪府にこうした校長がいればいいな、と思います。

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Comments

僕が都立高校に入学した時(1971年)には、高校紛争が一通り済み、「校則撤廃」「自主カリキュラム」「私服」が認められ、元進学校が大学みたいな自由な高校になっていましたが、昼休みには黒ヘルかぶった先輩たちが校庭をデモっていました。

Posted by: ZICO | March 13, 2012 at 10:52 PM

そういえば、昔は都立も学生服だったんですねぇ…

Posted by: pata | March 14, 2012 at 01:29 PM

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