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February 04, 2012

『連合艦隊 戦艦12隻を探偵する』

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『連合艦隊 戦艦12隻を探偵する』秦郁彦、戸高一成、半藤一利、PHP研究所

 昔、日本の少年たちは「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛榛名、比叡霧島」と帝国海軍の戦艦の名前を五七五七七にして覚えたそうです。戦前、大和と武蔵は軍事機密ですから、それをあわせて12隻。よくつくったもんです。

 このうち金剛はイギリスの造船所でつくられましたが、残る11艦はすべて日本製。しかも、それぞれの時代の最高性能を実現していました。

 しかし、宿敵ハルゼー提督の機動部隊に最も打撃を与えたのは、沖縄戦の真っ最中に発生した台風で、なんと戦艦空母以下30隻が損傷したというのは、なんとも寂しい限りではあります(p.41)。日本の誇りであった戦艦には、軍学校で最も成績の良い幹部が乗り込みますが、軍令部はなぜか最新艦を出し惜しみして、旧型の金剛型の4隻や扶桑型の4隻しか出番がなく、陸奥は爆沈、長門はビキニ環礁で原爆実験に使われて沈むなどほとんど戦果らしい戦果をあげることができず、大和と武蔵もヤケクソ気味に使われただけで真価を発揮することはありませんでした。

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 『坂の上の雲』などで東郷元帥が神格化されるのは、やはり旗艦先頭の美学でロシア艦隊に突っ込み、砲火を受けながらも自らは艦橋から一歩も動かず敵を撃滅したからだと思いますが、そうした輝かしい伝統があるにもかかわらず、昭和海軍はアウトレンジから大砲、魚雷を撃つという方向に転換していきます。これには、日本みたいな貧乏な国では虎の子の戦艦を簡単に失うわけにはいかないという考えもあったんでしょうが、それによって《突撃精神を失った》のかもしれません(p.52)。だいたい4万メートルも前で魚雷を放っても相手も動くのだから当たらないでしょうし、大和クラスの主砲が20kmも届いたからといって、そんなもの当たるワケがない。

 それにしても、1911年1月に起工して13年11月に横須賀へ到着した金剛は、よく当時の最新鋭のものをイギリスのヴィッカース社がつくってくれたものだと思っていましたが、メンテナンスもあるので設計図をもらえたので、それを元に姉妹艦の比叡を横須賀海軍工廠、神戸の川崎造船所が榛名、三菱の長崎造船所が霧島をつくり、これに呉の海軍工廠とあわせて国内の生産体制をつくった、というあたりは、なるほどな、と思いました(p.56-)。なんと金剛型四隻は、第一次世界大戦当時、日英同盟を結んでした英国から全部貸してくれ、と要請されたそうです(グズグズいって断ったそうですがwp.72-)。

 この金剛型の4艦は太平洋戦争当時はもう古くなっていたので、出し惜しみせず使われたのですが、ミッドウェーでも本来ならば《空母のすぐ横にピタリと張りついて、「魚雷はこっちが受ける」というぐらいの覚悟でやって》もらえれば随分と、その後の戦況も変わったんでしょうが、残念ながら戦艦の方が格上なので先任者が艦長に乗っているので、そうした感覚がなかった、といいます(p.64)。

それでも、金剛、榛名の2艦は42年10月13日深夜にガダルカナル島のアンダーソン飛行場に史上初の艦砲射撃で打撃を与えるという世界の軍事史に残る戦功をあげています。しかし、この艦隊を率いていたのは、見敵反転の栗田健男。《栗田艦隊はへっぴり腰だから、とにかく九二〇発を撃ち込んだら、後は雲を霞と退散》(p.94)してしまい、残った滑走路から米軍機によって日本軍は攻撃を受け続ける結果となります。そして、もう一回行こうかということになって、今度は比叡と霧島が向かったら、米艦隊が待ち構えていて両艦は沈んでしまうというギャクのような展開…。

 このうち霧島はサウスダコタに中破の損害を与え、さらにサウスダコタも逃げてしまいますが、ワシントンとの撃ち合いの末の撃沈という派手な最後を飾ります。たぶん戦艦同士の本格的な砲撃戦は最後なのかも、とのこと。

 サウスダコタ、ワシントンはできたてのピカピカで16インチ砲。霧島は艦齢30年で14インチ砲というハンデはあったものの、あっけなく沈んだといいます。

 このソロモン海戦には大和、武蔵はおろか、トラック島にいた長門、陸奥さえ軍令部は出しませんでした(p.108)。なんで、出し惜しみしたんでしょうね…陸軍主体の戦闘なので、海軍としては伝家の宝刀をやおら抜くわけにはいかないというセクショナリズムでやっていたのが情けない…。

 それでも金剛型の4艦はよく戦いました。こうした「よく働いた戦艦」だから海上自衛隊も護衛艦に「はるな」「ひえい」「こんごう」「きりしま」という名前を復活させたのかな、と。ちなみに「いせ」「ひゅうが」も良く働いた戦艦で、しかも、ミッドウェーで空母を失った後に伊勢と日向は航空戦艦に改造されたため、ヘリ空母といいますかヘリコプター搭載護衛艦(DDH)がその名を襲名することになったというのは、好きな人は皆知っている話でしょう。しかし、この航空戦艦への改造をやったおかげで、主力艦が肝心な時にずっとドックに入っていたというのは腹立たしい。つか、当時の帝国海軍がいかにマネジメント能力を持っていなかったことの証左なんでしょうね…。

 また、事故でドック入りしていた日向にレーダーを付けるヒマがあるんだったら、なんでミッドウェーに向かう機動部隊に付けなかったのかという秦郁彦さんの疑問はもっともだと思います(p.150)。そうすれば「赤城」以下が奇襲でやられる前に警報を出せただろう、と。ミッドウェーの敗戦では、索敵の不十分さ、連戦連勝で相手を甘く見すぎていたなど、様々な原因が語られていますが、全体に弛緩していたとしか思えない敗戦でしたね…。

 潜水艦「伊一六八」艦長の田辺弥八中佐はミッドウェーにも出撃したのですが、なんと燃料が足りなかったそうです。作戦計画では「帰りはミッドウェー島」で補給すればいい」という答えだったそうですから、危機管理できてなさすぎ…(p.153)。それでも、田辺艦長はヨークタウンを追撃して魚雷で仕留めたのだからたいしたもの。なんと「帰りは浮いて帰る」つもりだったそうですから、その敢闘精神はたいしたものです。

 それにひきかえ、このミッドウェーの時も反転したのは栗田艦隊。それなのに、なんで帝国海軍最後の大作戦の本隊が栗田艦隊となったんでしょうかね…。本当に不思議な人事です。《どうこう言っても、軍人は最後にやるかやらないかで、評価が定まります。途中で調子が悪いからといってUターンするんだったら、「素人でもできる」》と西村祥治中将を称えた戸高評は、そのまま栗田批判になります(p.174)。もっとも、レイテ湾では反転した時に乗っていた人たちは感謝しているそうですが。

 海軍航空隊にやられた英国艦隊のプリンス・オブ・ウェールズのフィリップス提督は本国からインド洋経由でやってきて、現地で碌な訓練もしないまま、到着後、1週間で日本の上陸船団を攻撃しに出動したのは戸高さんならずとも「偉い」と思いますね(p.85)。

 それにしても、1939年就航の世界最強艦を、僚艦レパルスとともに惜しげもなくマレー沖に向かわせ、その艦長も躊躇することなく戦闘に向かっていったというのは、たとえ山本五十六司令長官の養った航空戦隊に沈没させられたにせよ《貧乏な国は戦争できないですよ》という戸高さんの感慨はもっともだと思います。こうしたことがあっても、それでも最後までイギリスは耐え、アメリカの参戦を待って勝ったんですからね…。

 にしても、日本は機動部隊の編成、艦砲射撃など独創的な戦術を編み出したんですが、結局、習熟させていったのは、数にモノをいわせたアメリカだったというのは、なんともやりきれませんね…。

 八八艦隊建設を進めた加藤友三郎が、日本の財政が破綻することに気づいて、ワシントン条約をわたりに船だと思ったというのは、本当なんでしょうかね(p.256)。

 あと、旅順港での「杉野はいずこ」の杉野孫七兵曹長の息子さんが「長門」の艦長になっていたというのは知りませんでしたね。ネイビーはやっぱり伝統なんだな、と。

 にしても、坂口安吾ではありませんが、機能美あふれる戦艦は美しい。特に長門と伊勢、それにプリンス・オブ・ウェールズは好きです。

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