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January 13, 2012

『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』

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『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』川田稔、中公新書

 いやー、新年から面白い本を読ませてもらっちゃったな!という感じです。

 昭和陸軍(川田氏の定義によると、組織として政治化した帝国陸軍)のことは、興味をもってずっと本を読んでいるんですが、その中でも最優秀の人物としていつも描かれているのが陸軍軍務局長で斬殺された永田鉄山。福田赳夫元首相の回顧録でも、大蔵省時代にたぶん8月なので概算要求でガンガン電話でやりあっている時に、相手がふといなくなったと思ったら「失礼。執務中に永田鉄山が殺された」と割と平気な口調で返ってきたなんてことが書かれていて、どんな組織なんだ…と思ったりしたんですが、とにかく、日本中で一目も二目も置かれて人物でした。

 長野県出身の彼は何をしたのかと言いますと、山県有朋以来の長州閥を陸軍から放逐したんですね。そのために21年にバーデン・バーデンで陸軍士官学校16期同期の三人と落ち合い、帰国後は二葉会を組織、やがては22期の木曜会と合わせて有力な中堅幕僚を集めた「一夕会」を結成していくんですが、やり方が徹底しています。なにせエリートを養成する陸軍大学に合格させないというところから始めるんですから。22年から24年まで連続3年間、山口県出身者は全員不合格。しかも、口述の二次試験で落とすという意図的な操作を行うという(p.8)。官僚とは何かを知っていたんですな、彼らは。つまり試験を受かった者だという。

 そして次に荒木、真崎、林という非長州系を陸軍大臣などにつけるとともに、陸軍中央の課長、局長クラスのポストに「一夕会」の会員をつけていきます。

 この「一夕会」はやがて、真崎らの皇道派と、永田らの統制派に分かれていくんですが、皇道派の連中は佐賀閥や土佐閥を中心としていたというのは知りませんでしたね(p.18, p.88)。皇道派は青年将校らに担がされそうになり、それを永田らが統制しまくったということで、永田は激怒した相沢三郎に執務室で惨殺されてしまいます。

 しかし、永田が構想した、陸軍は組織として政治を動かすべきだという考え方は、石原莞爾らに引き継がれるんですが、永田の考え方が本格的だと感じるのは、暴発的なクーデターなどではなく、まずは内閣を動かし、予算をつけ、やがては内閣そのものを握ることで国家総動員体制を敷こうという作風です。「一夕会」の石原が起こした柳条湖事件の際、陸軍参謀総長が陸相の承認を得た上で、昭和天皇に帷幄奏上を行うことで部隊派遣の許可を得ようとしたことを、なんと永田課長は参内中に変更させてしまいます。《内閣を動かさなくては満州事変は正当性と合法性を失い、かつ経費の裏付けを得ることができず、結局は失敗する可能性が高いと考えていたからだった》というわけなんですね(p.41)。

 永田は総力戦体制を構築するために国防資源確保の必要性から満蒙と華北・華中が重要であると考え、それは米英との対立の可能性も考慮に入れる、というスタンスをとっていました。なんと大胆で骨太というか、本格的な思考か、と驚かされます(p.82-)。石原の世界最終戦争なども、こうした永田理論をベースにしているんだな、と思います(もちろん結果的には大敗北になるわけですが)。

 皇道派が一掃されたのと引き替えの永田暗殺の翌年、残った隊付青年将校国家改造グループが2.26事件を起こしますが、当然のように失敗。唯一残った宇垣系も予備役となり、政治色のある有力上級将官は統制派だけになります。

 こうした状況の中で強い影響力を持つようになったのが当時は課長クラスだった統制派中核の石原と武藤章ですが、やがて石原は「従来の帝国主義的侵寇政策」を放棄して、統一された新支那建設を援助すべきだという主張に変っていき、そして内蒙工作を中止すべきだとして武藤らに追い出されることになります(p.143)。武藤は永田の遺志である華北分離に反する石原の主張が許せなかった、と著者は推察しています(p.148)。

 こうした違いは永田と石原の構想の距離感からきている、と著者は言いたかったのかもしれません。永田の国家総動員法は次期大戦を不可避として、それに対応するためだったのに対し、石原はご存じ日米による世界最終戦論者ですから、その体制づくりのために次期大戦で日本は局外に立つべきだという、やや高邁なスタンス立っていたため、武藤らの課長クラスから突き上げをくらったのかな、と(p.149)。さらに武藤らを煽るようにドイツはラインラントに進駐し、イタリアはエチオピアに侵攻します。

 この手の本は「どこが日米開戦を回避できるポイント・オブ・ノーリターン」だったのかな、と考えながら読んでいるんですが、やっぱり、それは南京進駐の前に行われたトラウトマン調停だったでしょうかね。南京占領を前に蒋介石は領土・主権の保全を前提に受け入れを伝えますが、勝ち戦に驕ったのか近衛内閣は和平条件を厳しいものにすることを閣議決定してしまいます。南京大虐殺の与えた影響なども考えると、歴史にifは禁物ですが、このとき対ソ連戦の準備のために早期収拾を図りたかった陸軍参謀本部の河辺作戦課長らの意見が陸軍省を説得していたら…と思わずにはいられません(p.175)。とはいっても、その後、日本が米英との自由貿易体制の方向に舵を切れるか…という疑問は残りますが。

 また、第二次世界大戦のイメージも変わりました。この著者のように、第二次大戦はイギリスをドイツが屈服させられるかどうかの戦いだったのかな、と。もしドイツがイギリスを屈服させたら、アメリカはヨーロッパでの足がかりを失うとともに、ドイツはイギリスの工業力も手に入れ、大西洋と太平洋から挟撃を受けることになります。こうしたアメリカにとっての安全保障上の重要問題だったから、日独相手の両面作戦をあえてやったのかな、と。

 一方、日本では「英米分離は可能か」という神学論争みたいな議論をずっとやっていて、まだ大丈夫だろ、ここまでならアメリカも動かないだろうとタカをくくっているうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまったという感じです。1939年6月に天津英仏租界の封鎖に際し、ヨーロッパ情勢に備えるためにイギリスはやむなく中国国内で日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受けいれましたが、その三日後にアメリカはイギリスの代わりのような感じで日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも対日経済封鎖へ踏み切る構えみせて牽制します(p.194)。こうした事態を観察すれば、米英不可分だということぐらいわからなかったのかな…と思いますが、一方、ナチスがソ連に飛びかかったことを、参謀本部はヒトラーの致命的な判断ミスだと見ているのも「そりゃそうだわな」と思うとともに、こうした判断ミスがいっぱいあったんだろうな、と。

 さらに昭和陸軍はノモンハンでソ連の陸軍の実力を知り、それに驚愕します。このため、石原を追い出した武藤は、対ソ戦に備えるために、中国との和平を目指すというんですから、歴史は繰り返すんですな(p.200)。しかし、汪兆銘工作(梅工作)、重慶政府との交渉(桐工作)は失敗します。そして、武藤らは英米可分を信じて、南方進出によって事態の打開を図ろうとして、日米を地獄に落とすわけです(p.212)。

 一方、海軍もドイツの英本土上陸作戦が延期されるまで英米可分の立場だったんですが、英独の戦いが長期戦になったことで、必ずやアメリカが軍事介入するとみて、英米不可分の立場に立ちます(p.219)。それは、デンマーク領グリーンランドへのアメリカ軍進駐をみても明らかだ、と。そうなりゃなければ分からなかったのかよ、と正直思いますね。

 一方、陸軍の武藤は、対ソ戦を強硬に主張する田中新一作戦部長に悩まされます。田中の見立ては、もし日米が和解して枢軸国から脱した場合《独伊が屈服するか、そうでなければ世界大持久戦争となるだろう。だが、いずれにせよ事態が決着すれば、日本はあらためて米英ソ中による挟撃にあう危険がある。また、絶対不介入の中立政策も空想といわさるをなかい。それゆえ、現時点では枢軸陣営において国策を実行するほかはない》というものだったそうです(p242)。

 そして、武藤は田中らが「しゃにむにソ連に飛びかかりそうなので、それを防ぐ」ために、アメリカの対日前面禁輸の可能性があったにもかかわらず、南部仏印進駐を実施するという、本末転倒の対応をとります(p.261)。さらに海軍も米英による南部仏印の先制占拠を警戒して賛成してしまう、という負のスパイラルが速度をましていきます。

 一方、アメリカはソ連崩壊を恐れて、日米開戦を引き起こすかもしれない対日全面禁輸に踏み切ります。もし、ソ連が敗れればドイツはイギリスに向かうからですが、これ以上、日本の南進を看過すると、イギリスがアジアやオーストラリアからの物資調達が出来なくなり、それはイギリスを崩壊させるからだ、と。《一般に、日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だったと思われがちだが、それは正確ではなく、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのである》という主張は新鮮でした(p268)。《アメリカ国務省の対日強硬派ホーンベック国務長官特別顧問(元極東部長)でさえも、アメリカハ中国市場をめぐって日本と戦争すべきではない、という日米戦争回避のスタンスだった》そうです(p.313)。

 42年6月からの対ソ戦でのドイツの敗走、独伊のスエズ運河掌握の失敗によって、イギリス屈服の可能性はなくなったのですが、この条件下で、どちらも東條によって飛ばされた武藤・田中にかわる新たな政戦略を構想しえる有力な幕僚は現われず(p.328)、日本はズルズルと破滅への道を歩む、というのはなんともやりきれませんでしたね。

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