『十字軍物語3』
『十字軍物語3』塩野七生、新潮社
こうした良質なエンターテイメントで、新たな知見を得られるといいますか、より世界史を深く味わうことができるのは、大きな喜び以外のなにものでもありません。
今回、印象に残ったのは、サラディンから続くファテーィマ王朝のサルタン。その弟でファティーマ王朝を継いだアラディール、その息子で、なんとリチャード獅子心王から騎士に除せられたアル・カミールは、中世の闇に捕らわれて、性懲りもなく十字軍を編成しては送り込むキリスト教国の人々をあやし、講和を結ぶように仕向け、なんとか中東に平和を作り出していった、という物語がストンと胸に墜ちました。
もちろん、ヨーロッパでも、闇に閉ざされているような人々たちだけではなく、悪役には描かれてはいますが、領土を徐々に拡張していって、やがては子孫がローマ教皇をアヴィニョンに捕囚するまでにいたったフランス王フィリップ2世や、二度の破門にもかかわらずやるべき仕事をやってのけ、十字軍都市国家をいったんは強化することに成功した神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒなどは、近代的な精神を感じさせてくれて、好感が持てます。
そして、ローマ教皇の中でも、やはり大物中の大物ともいうべきインノケンティウス3世はひと味違うんですね。アッシジのフランチェスコの運動を早い時期に公認するとともに、やがて神聖ローマ帝国の皇帝となるフリードリッヒが若い時には物心両面で保護を与え、イスラム教徒に拉致されたキリスト教徒を身代金を支払うことによって解放することを主目的にした「救出修道会」にも公認と財政的な基盤まで与えます(p.196)。日本の政治家でいえば田中角栄みたいなイメージでしょうか。《私にはこれこそ、既得権者が非既得権者をサポートする場合の理想的な形に思えるのである》という塩野さんの感想はもっともだと思います(p.198)。
にしても、サラディンは大物なんですよ。なにしろエルサレムが奪われたことを知って教皇ウルバン3世はショックで死に、それを継いだグレゴリウス8世さえも一年後には死んでしまうんですから。第一次十字軍はウルバン2世によって始められたわけですから、ウルバン3世なんかは特にやってられなかったと思います。
ヨーロッパ全体が落ち込むなかで、それを救ったのがイギリス王リチャード。リチャードの戦いぶりを、例によって図解をふんだんに使いながら描く塩野さんは、たまんなく楽しそうです。不謹慎な言い方になるかもしれませんが、例えば昭和史の加藤陽子先生なんかも、実に活き活きと戦闘を描くんですが、女性のある一面を見るような気がします。にしても、ロジスティクスを重視し、慎重に、合理的に勝利を重ね、しかも勝利に奢ることなく最後の講和をさっとまとめて帰るリチャードのなんとカッコ良いことか。
それに続くのが第四次十字軍ですが、これは高校の世界史レベルでも最悪の十字軍として有名です。なにせ、かたやカトリック、かたや正教と多少宗派は違うとはいえ、ハタから見れば大して違うとも思えない同じキリスト教国のビザンチン帝国を攻め滅ぼしてしまうんですから。
この第四次十字軍に関しては同じ塩野さんの『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』を併読することをお勧めします。そして30年近く前に書かれた時と違って、今回はヴェネツィア共和国とアラディールの密約が背景にあることを強く匂わす内容となっています。
第四次十字軍の海上輸送をまかされたヴェネツィア共和国は、その艦隊建設の費用を騎士たちが払えないとみるや、次々と交易上に支障となっていたライヴァルたちの拠点を攻めることで、その代償を払わせ、最後には東西キリスト教の統一というお題目をとなえて、ビザンチン帝国まで滅ぼしてしまうんですから、大したものです。
塩野さんは最後に、中世の歴史を「カノッサの屈辱」1077年、「十字軍遠征の宣言」1095年、「アヴィニョン捕囚」1309年という三つで総括します。教皇はそれぞれ、グレゴリウス七世、ウルバン二世、クレメンス五世。神聖ローマ帝国の皇帝を雪の中で跪かせた教皇の権威は、やがて十字軍をも送り込むまでになりますが、俗世の力を貯めていったフランス王によって否定され、やがてはシスマ(教会大分裂)にもつながります。
しっかし、教皇には面従腹背で領土拡張を着々と進めていったフィリップ2世、突然変異のようにキリスト教に深く帰依して、やがては自ら志願して二度までも十字軍遠征を行ったあげく2万人もの捕虜を出す大敗北を喫する聖王ルイ九世、ルイの孫で教皇ボニファティウス八世をアナーニに襲って死に至らしめたばかりか、フランス人教皇のクレメンス五世を立てて教皇庁をアヴィョンに捕囚したフィリップ四世という歴代フランス王の振幅の広さは、今のフランスに住む人々の振幅にも通じているのかな、とも感じました。
後は読んでのお楽しみ。次、何を書いてくれるのか楽しみです。
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