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November 13, 2011

『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』

Last_banker

『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文、講談社

 今年のベストワンはこれかな。

 かなり感動もし、面白かった本なので、遠くから描き始めますが、この本は「不良債権と寝た男」と呼ばれ、住友銀行を建て直したただけでなく、日本郵政をもリフォームできたかもしれないのに、小泉純一郎首相の最後の一押しが足らなかったばかりに、麻生政権末期のゴタゴタに巻き込まれて退陣を余儀なくなくされた西川善文の回顧録です。「私の履歴書」的な予定調和もなく、危機また危機を、時には次善の策で乗り越えていった話しは時にはボカしも入りますが、それぞれのエピソードにはとてつもないほどのリアリティが感じられます。

 《私は、悪役とされることが多かった》《毀誉褒貶は、人の世の性であり、これに抗するほど私は若くない。かといって毀誉褒貶を誇りとするほど私は野心家でもない》という「おわりに」はカッコ良すぎる…ビジネスマンなら一度これぐらいのこと言いたいんじゃないでしょうか。

 ということで思ったのが、経済成長と再分配政策。よく戦後の首相で最も評価されるのは高度経済成長政策を掲げた池田勇人さんですが、冷静に考えてみれば経済政策が成長を思いっきりエンカレッジするなんて言いぐさは経産省のお役人ぐらいしか使わなくなっているし、逆に考えてみれば、高度成長にうまく乗って、それなりに再配分やっただけ、とも考えられます。

 当時の首相が長続きしたのもわかりますよね。安定的に再配分を受けられるというか、次の年の収入も読めるから、安心して投資も行えて、それがまた成長を呼ぶ、みたいな。

 でも、さすがに、このままでは財政が破綻するということで大平さんが増税を言い出し、中曽根が失敗し(そういえば中曽根さんの時はバブルでしたね)、ようやく盤石の体制の竹下政権で実現したけど、その竹下さんでも、辞任と引き替えでしか法案を通すことができなかったということを考えると、いかに国民負担を求めるのが難しいかわかります。大平さんの時も「国民負担を求める前に公務員制度の改革を」と言うことで選挙に負けたわけですから、この問題が自民党政権下では三十年一日の如くまったく議論さえ進んでいないかったことがわかります(ぼくは民主党政権が四年間は増税はしないと言っていたのは、公務員改革をやった後、次の総選挙後には増税する、という意味だと思っています)。

 ということですが、西川さんは生まれ育った奈良から、新聞記者志望で阪大を出たものの、ひょんなことから住友銀行に入ったそうです。西川さんが住友銀行に入行した1961当時の初任給は1万4000円だったそうですが、夏のボーナスには早くも8万円が出て、次の年のベースアップで給料は1万8000円になったそうです(p.30 バブルの時に、ささやかながら1年で最高7万5000円ぐらい給料が上がったことを思い出します)。

 当時は、日銀の窓口規制が厳しい中で民間の資金需要に応えるため、一般人の家まで行って預金を集めていたといいます(p.34)。当時の日興證券(今のSMBC日興證券)が「銀行よ、さようなら。証券よ、こんにちわ」という直接金融の宣伝をしていたというのを読んで、ここでも十年一日の如くまったく変わらないという感じを受けました。『国会議員の仕事』で林芳正参議院議員が大蔵政務次官だった頃、直接金融の大事さを答弁したら、宮澤元総理から「あなたが生まれる前ですかね。昔も『銀行よさようなら、証券よこんにちわ』と言ってたもんですな」と古くて新しい課題であることを教えてもらったことを書いていましたし(同書、p.81)。

 さらに、これも「あまり変わらないな…」という感慨にひたってしまうのですが、本店調査部でバリバリ仕事をしていた時に、S社の経理操作を見破った時に話しも面白かったんですよ。当時、不買運動にあって減産しなければならないのに、工場はフル操業していておかしいと思ったら、倉庫は在庫の山。案の定、直系の販社に押し込んで売上げを立てていたのですが、さらに決算月の21日から月末までの10日間の販売額をものすごく増やしていた、と。西川さんは工場売却を創業者の実弟に勧めるのですが、それは受け入れられず、過剰生産の取りやめと在庫整理で乗り切ろうとしたのですが《会社は最近になって、同業大手の傘下に入った》というのですから、三洋なんですかね(p.47-)。

 けっこう長い間、生きていると、人間も企業も同じ過ちを繰り返すし、抜本的な改善策っていうのは、分かっていてもなかなか実行できないんだな、と思います。

 グリーンスパンが2000年1月に宮澤(当時)蔵相に、不良債権処理で会い「第一に、経営危機に陥った貯蓄金融機関の大部分を破綻させる。第二に、資金を清算機関に移す。第三に、資産を大幅に割引して処分し、不動産市場を再活性化させる」というRTCによるS&L救済策のようなプランを提案したそうですが、今の米国や欧州も、自分の問題になったら、そんなことできていませんもんね。宮澤さんは「アラン、日本の銀行の問題について、じつに鋭い分析をしてくれた。対策についてだが、それは日本のやり方ではない」と答えたそうです(『波乱の時代』下、p.56)。

 そして1968年にGNPでドイツを抜いて世界二位になった頃から、日銀の融資規制が緩和され、企業は直接金融で資金を調達するようになり、銀行は「どうやって融資を増やすか」という新しい課題にぶち当たり、住友銀行も審査部の中に企画部門をつくります。《借りてくれる会社がなければ、審査どころではない》というのは、わかりやすすぎる説明です(p.53)。

 1975年に発覚した安宅産業事件も西川さんが担当していたそうです。当時、十大商社の下位だった安宅産業がそこから脱しようとして、これも後に潰れる三光汽船と共同で独立系の精油所NRCに出資したのですが、操業開始した直後の1973年にオイルショックが発生。原油の仕入れ価格が急騰し、逆ざや販売で480億円もの赤字を計上してしまった、と。そして、75年に安宅アメリカの焦げ付きがどうしようもない額となり、住友銀行に泣きついた、と。

 ちなみに5200億円という多額の負債を抱え倒産した三光汽船のオーナーは総裁選にも出馬した河本敏夫で、その側近だったのが大島理森。大島さんはいまや副総裁っていうんですから、自民党もアカンですわなw

 ま、そんなことをおいといて、このまま安宅を潰したでは、日本の総合商社というビジネスモデル自体の信用が落ち、ひいては多額の融資を行っている日本の銀行の信用もなくなる、ということで、破綻を食い止めるという判断が日銀との間で合意されます(p.64)。

 当初は住友商事との合併を考えていたそうですが、安宅の最大の取引先が新日鐵であったのに対し、住商はすでに住金をグループに持っていたことや、住商と住銀のトップ同士のソリが合わなかったこともあって、合併話しは二度も破綻。結局、新日鐵との商権を魅力に感じた伊藤忠が合併に乗り出してきますが、元々、繊維部門の強かった伊藤忠は安宅の繊維部門など継承しようとはしません。そうした伊藤忠にリジェクトされた安宅繊維は、住金から社長を出していたイトマン(当時は伊藤萬)が引き取ることになるのですが、これが、後のイトマン事件にもつながるわけです。

 安宅産業事件の損失をなんとか処理した後、当時の磯田頭取・会長が「安宅を処理できたんだから」と金の屏風事件などにもかかわらず平和相銀を配下に収めますが、やがて3000億円も闇社会に資金を流したイトマンと問題を起こし、西川さんは部長クラスの血判状を集めて磯田氏を辞任に追い込みます。

 その後も《不良債権と死に物狂いで戦ってきた》西川さんを、郵政の社長として使い切れず、退任に追い込んだのは、自民党の統治能力が衰退していた証拠だったのかもしれません。

 もっと書きたいのですが、それでは読む方々の喜びを奪ってしまうので、この辺にしておきます。

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