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October 02, 2011

『「思春期を考える」ことについて 中井久夫コレクション』

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『「思春期を考える」ことについて 中井久夫コレクション』中井久夫、筑摩書房

  『中井久夫著作集第三巻』を中心として、新しく《牧草の野草を花束に纏め》たコレクション(あとがきから)。

 1979年というのはまだ思春期精神医学が草創期にあったそうですが、そんな時代に合宿勉強会をした際の報告である「思春期のおける精神病および類似体験」は、最初に収められているだけあって良いです。この時期というのはなかなか意識しても思い出せない場合の多いんですが、腕っぷしの強い子、成績の良い子、金持ちの息子などを非常に高く評価する大人顔負けのリアリストである小学生時代から、それを恥じる心が生まれるからなのかな、と思いながら読みました(.19)。

 小学生でそういう持ち合わせのない子は、せめておどけたりして仲間に入ろうとします。しかも、小学生の友情は不思議と長続きしません。あれほどの親友だったのがと思うほど、中学校へ入るとともにあとかともなく消え去る友情が多いのです。

 というあたりは、まさにその通りだな…と思って読みました。しかも、自分とは何かという問題を考える割には表現も乏しく手近な借りもののことが多く、さらには「身体のことば」さえも少ない。一年で身長が10センチも伸びる時があるという一生に一回だけの時期に、身体の変化にことばが追いつかない時期だ、と。

 さらに、この時期に不登校が報告されはじめるのですが、アメリカの例と並行して考えると、因果関係があるのが大衆大学の成立ではないか、というあたのもハッとさせられました(p.23)。

 《大衆大学は、酷薄な言い方をすれば失業者プールでもありうるわけです。親からいえば、中学やハイスクールを出てぶらぶらしているくらいなら、大学へ入れて学歴をつけておけば景気が回復したときに社会的地位の上昇が期待でる。一方政府からいえば、親の負担で何百万人かの青年たちを大学に入れておけば、失業手当も払わず社会不安も興さずにすむ》(p.24)というあたりは、たった30年前ぐらいですが、今の状況から考えると興味深いところです。

 日本を含む先進諸国は幅広く長期間にわたる景気回復が望めそうになく、親世代の可処分所得の減少も含めて「学歴による地位向上」というのは幻想になりつつあり、大衆大学はビルトインされた社会システムとして機能しなくなっているのなか、と。もっとも、2012年の五輪メイン会場付近で開業したショッピングセンターで地元採用した従業員の大部分が読み書きも二桁の計算もままならなかいという英国(雑誌『選択』10月号、p.19)よりはマシなのかな、とは思いますが。

 思春期・青年期に精神病になる人には、ふしぎに小学校のとき成績がトップだったという人が多く、一番でいるというのはなかなかキツイことだ、というあたりも個人的な経験からも納得的です(p.27)。さらに中学、高校でもトップというわけにはいかず、子どもプライドは傷つきます。

 次の「思春期患者とその治療者」では、20歳前後の《経験の乏しさと、知的能力や感覚性の大幅の拡大とが結びついて微妙な一瞬の平衡をなすこの時期にしばしば「少年詩人」が生まれる》(p.42)というあたりが印象的。また、特効薬の普及によって思春期から結核のトゲが抜かれた結果、思春期における危機はそれだけメンタルなものに集約されていった、というあたりも、なるほどな、と(p.47)。

 さらに個人的に納得的なのが、多くの患者が中学二年をもっともなつかしい時期と回想するということが繰り返し書かれていること。閉鎖的にやっているFacebookで、何をしたらいいのか分からないから、印象に残った音楽や映画についてYoutuebeから検索して貼っていったら、中学二年生前後のものが突出して多かったのには個人的に驚いたのですが、小学校から中学校に上がっての1年間を無事に過ごし、高校受験まではまだ一年あるというこの時期には、やっぱり、相当「何か」があるんじゃないかと思いました(素人意見で申し訳ないのですが、個人史的にも面白いと思うので、これをご覧の方々も一度やってみてはいかがかと思います)。

 また、79年に書かれた「ある教育の帰結」では《人間の追求するものを満足satisfactionと安全保障感securityに分けたのは》サリヴァンであるとして、教育は死回避行動ではないかという議論とともに、サリヴァンが登場します。にしても、今でもフィリピンは人口比でもっとも大学生が多い国なんでしょうかね…(p.71)。

 「精神科医からみた学校精神衛生」では《一人親友があるか、一人もいないかで、予後には重大な開きが生まれる》(p.79)というあたりもサリヴァンに引きつけて読まされました。「人格は対人関係の数だけある」のなら、自分の好きな自分の人格と出会うために、特定の人物と親しくなるんじゃないか、もっと下世話に言えば、特定の飲み屋にも行くんじゃないのかとか思っているもんで。サリヴァンの「対人関係事に人格がある」というのは、言葉を変えれば吉本隆明さんの関係の絶対性かもしれない、と個人的には思っています。中井先生をはじめとする日本人の精神分析医に米国よりサリヴァンが許容されるのは、これじゃないかな、とも。

 この調子でいくと、いつ終わるかわからないので、後はサクッと…。

 1955年の第一回バンドン会議に第三世界の一員として、高崎達之助が日本政府を代表して出席し、ネルー、ナセルや周恩来などと親交を深めたことや、おくれて日本のGNPがポルトガルやギリシアなどのヨーロッパの一国を抜いたことを当時の通産省が誇らしく発表したことを忘れているのは、庶民の生活でいえば室町時代ともつながっていた1950年代までと現在の乖離を改めて意識させられます(p.132)。

 マツクス・ウェーバーが父に対する家族裁判を主宰して、父を家出と死に追いやったことで重篤なうつ状態になったというのは知りませんでした(p.134)。

 タイやビルマでは公務員でも「一時僧」になれる権利を持ち、その際に、僧としてリスペクトされつつ、個人的な悩みと向き合うことができるというのは素晴らしい制度だと思いました(今もそうであるかどうかはわかりませんが…p.152-)

 社会的地位が高い人ほど「顔をつくれる」能力を身につけて、その結果、階級上昇しやすいので、そうした人物がうつ症状を訴えた時には、待合室を覗いて暗い表情をしていなかどうか見たほうがいい、というのも、社会人経験からしても納得です。鬱病患者は感情を殺すことを美徳と思ってきたので、自分の感情を話すのは苦手だ(p.181)、というあたりも含めて、息子さんが自殺した翌日でもにこやかに応対していたのに、その後…という方を思い出します。

 人間が安全保障感を得るにあたって、最重要人物である母親からの承認・不承認を細かく観察することによって「自己」が発生してくる、といったあたりの議論もしびれました(p.295-)。

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