« 『コルトレーン ジャズの殉教者』 | Main | はま田のしんこ »

August 06, 2011

『家族と側近が語る周恩来』

Zeu_onrai

 BSプレミアムで4回にわたって放送された『家族と側近が語る周恩来』はなかなか面白かったんですが、なにより驚いたのは、周恩来が文革の動乱に巻き込まれたのが68歳だったことでした。

 その晩節にあたっても、消極的にならず、紅衛兵の服を着て文革の馬鹿騒ぎに付き合いつつ、ソ連との緊張に耐え、やがて日米に接近して、外交という最も自分の得意な分野で誰も真似のできない働きをすることで、四人組の追求を逃れ、死期を悟ると鄧小平に第一副首相の座を与えることで社会の崩壊を防いだ、という流れが家族と側近によって語られていきます。ちなみに、第二副首相は四人組の張春橋でした(副首相は当時、12人)。

 大躍進運動による農産物の生産高があまりにも高く、地方から送られてくる写真も収穫物が山積みなので、不思議に思って現地に行くと、一カ所の区画に作物が集められていただけだったとか、豊作の年には土法炉による製鉄作業に忙しく腐らせてしまったとか、正気の沙汰とは思えないようなことが続き、周恩来はその尻ぬぐいに追われます。

 日中国交回復の時は74歳。その年に血尿から膀胱がんと診断され、老い先短いことを知った周恩来は文革で追放された旧幹部を復帰させていきます(まあ、あれだけのストレスにさらされ続けていればガンにもなるわな、みたいな)。天安門のバルコニーに立てばそれまでの罪はチャラということになる、というのも面白かったですね。そして、四人組が取り組んだのが周恩来非難につながる批林批孔運動だった、と。

 紀東という秘書が語っているんですが、もし周恩来が毛沢東と真っ向から対立したら、おそらく中国は分裂して大混乱に陥っていたろう、というんですね。

 「唾不拭自乾、当笑而受之耳」(唾は拭ずとも自ずから乾かん、当に笑いて之を受くべきのみ 『十八史略 唐』)という言葉は周恩来のためにあるのかな、と。

 林彪事件は米中国交回復時に起きたんですが、もしソ連に亡命したら、全ての軍事情報がソ連に知られてしまうので、戦時体制が一瞬だけ敷かれた、なんてあたりも臨場感にあふれていました。しかし、林彪の飛行機はよくモンゴルで墜落したもんだと思います。

 側近で印象的だったのは秘書の紀東氏と趙煒女氏。紀東氏は『忘れ難い8年』、趙煒女氏は『西花厅岁月』という本を出していることも知りましたが、いつか読んでみたいと思いました。しかし、銭寿東とか張作文などの秘書たちは品格あるのになのに、姪や甥たちはどちかというと下品な感じを受けるのは面白いな、と個人的に感じました。喬金旺という護衛もまさに中国的好々爺だし。

 小さなエピソードでしたが、鄧小平は少し耳が遠かったというのも知らなかったな…。

 下報された青年たちにとって救いは人民解放軍に入隊することで、周恩来の姪や甥たちも入隊するんですが、コネをつかって入れたと非難されるのを恐れて除隊させた、というあたりの話も凄いな、と。

 周恩来の叔父はカネがなく妻が亡くなった時に盛大な葬式を出すことができず、そのカネを工面できたのは29年後だったという話もなんとも凄かった。

周恩来秘書の回顧録『忘れ難い8年』2007年10月刊行

 中華人民共和国の初代首相となった故周恩来総理の晩年の8年間について記した「忘れ難い8年」と題する書物が、10月17日、中国の中央文献出版社から出版された。

 著者は晩年の周恩来総理の身辺に仕えた秘書の一人で、元武装警察指揮学院副院長の紀東氏。

 1968年8月、当時25歳だった紀東氏は、所属していた8341部隊から周総理の身辺担当の秘書に抜擢され、1976年に周総理が亡くなるまで、ずっとその職に仕えた。

 その時期は新中国成立後、党と国家が重大な試練に直面していた時期でもある。

 紀東氏は次のように語った。長い間、私は過去について語る文章や回顧録を書こうなどとは全く思っていなかった。なぜなら、一部の出来事はどのように書き、どう表現すれば良いのかが分からなかったためである。それに、私は周総理の身辺に仕える秘書の中では最も若く、最も経験が浅かったので、恐れ多くて書けなかったということもある。

 しかし、時間の経過とともに、紀東氏の心の中では、西花庁(中南海の中にある周総理の住居兼執務室)の多くの人物や出来事に関する記憶が、薄まることはなく、ますます鮮明かつ重厚なものとなってきた。紀東氏は「これらを記録として残すことも私の責任の一つだ」と考えるようになった。

 ついに2006年5月から、紀東氏は中央文献研究室関係者の指導と周恩来?穎超研究センター専門家の支援を得て、「忘れ難い8年」というこの本の執筆に着手した。

 同書は計42編、約12万華字で構成され、そのほとんどは周恩来の日常生活に関するものである。

 このほか紀東氏は、人々が良く知っている出来事や過去にすでに記録のある出来事のうち、身辺に仕えた者として補充可能な出来事についても語っている。とりわけ驚嘆し、魂を揺さぶられるのは、「私が体験した『九・一三事件』(1971年9月13日、当時党副主席であった林彪氏が飛行機で国外に逃亡する途中、モンゴル上空で墜落・死亡した事件)という一文である。その中には、九・一三事件後三日三晩の周恩来についての見聞が書かれており、そのうちの一部は紀東氏だけが目撃した出来事である。

 晩年の最後まで周総理の身辺に仕えてきた者として、彼が他の誰にも勝ることは、周総理の日常生活と実務に関して、細微にわたって具体的に知っていることである。紀東氏は「総理と姉さん(?穎超夫人のこと)の接吻」という文章を書いているが、こうした日常の小さな出来事を通じて、読者は周総理の感情、情緒、精神的境地を知ることができる。

 「もう疲れた」これは周総理が紀東氏ら身辺に使える者に語った最後の一言であり、また、紀東氏が8年間仕えていた間、周総理の口から「疲れた」という言葉が発せられたのはこれが初めてであった。この言葉を発した8日後に周総理は永眠した。

 この30余年間、紀東氏の心中には、この時の情景とこの言葉が深く刻み込まれていた。

 中央文献研究室の周恩来研究家の一人は次のように語っている。歴史学研究家の見地として、これは周恩来文献公文書の重要な補充であり、貴重な歴史的価値を持っていると考える。党の指導幹部の見地として、これを通じて周恩来同志の思考方法、活動方法、闘争技術を学ぶ事ができると考える。共産党員の一人として、これを通じて周恩来の精神と品格を学ぶことができると考える。


趙煒(周恩来鄧頴超研究センター 顧問)

『西花庁歳月――我在周恩来鄧頴超身辺三十七年』


|

« 『コルトレーン ジャズの殉教者』 | Main | はま田のしんこ »

「映画・テレビ」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/52404666

Listed below are links to weblogs that reference 『家族と側近が語る周恩来』:

« 『コルトレーン ジャズの殉教者』 | Main | はま田のしんこ »