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July 10, 2011

NHKさかのぼり日本史「なぜ政党政治は挫折したのか」

Mikuriya_takasi

 NHK教育の「さかのぼり日本史」はなかなか良い番組で、「さかのぼり」手法自体はあまり成功しているとは思えないんですが、五百籏頭真、加藤陽子、御厨貴という解説陣の選定が素晴らしく、一ヵ月・4回にわたって、自分の研究対象の時代を語りつくすという内容が素晴らしいと思っています。

 中でもよかったのが戦前といいますか、帝国議会の開催から2.26までの政党政治の変遷を描いた「なぜ政党政治は挫折したのか」。戦前の政党は、当初から足の引っ張り合いに終始する一方で、支持者の利益を優先する党利党略の政策に走り、しかも汚職まみれになったために国民全体の支持を失った、という主張がよくわかりました。

 ぼく自身があまり、戦前の政党政治には詳しくないですし、御厨先生お得意のオーラルヒストリーではカバーできない分野なので、勉強もかねて番組を逆に「さかのぼる」感じで、内容をまとめてみました。

[第4回 理念なき政党の迷走]

 1890年に初の帝国議会が開かれたが、議席は藩閥勢力に対抗する政党が多数を占めた(94年には日清戦争)。議会開設から8年後、大隈重信首相、板垣退助内務大臣という初の政党内閣「隈板内閣」が誕生する。しかし、隈板内閣は迷走、わずか四ヶ月の短命内閣で終わる。

 初の政党内閣は選挙から8年目という早い時期に成立したが、大きな統一的目標はなかった。日清戦争に勝利した後、1898年に伊藤博文は軍備拡張のため地租増徴を図ろうとするが、それに反対したのが農村地主を基盤とする自由党の板垣、立憲改進党の大隈。

 増税案を大差で否決した板垣と大隈は、新たに衆議院の7割を占める憲政党を設立。3日後、伊藤総理は辞任を二人に表明、憲政党に次の内閣を任せると伝えた。板垣はまだ政策協議もしていない段階だと辞退するが、大隈は乗り気になって首相に就任。板垣は内務相に。

 大隈は藩閥が独占してきた官僚人事への介入を行い、県知事なども含めて憲政党の人材を送り込んだ。それは末端の官吏にも及んだ。しかし、大隈内閣は軍拡予算問題で躓く。陸軍と海軍大臣の要求を飲まざるを得なかったから。結局、酒税と砂糖消費税を導入する。

 しかし、これには消費税導入で苦しむのは一般国民だと党内から異論続出。党内はまとまらないまま、文部大臣は失言で辞職。後任の大臣ポストをめぐって大隈派と板垣派が対立。党内は分裂し、板垣派の閣僚が辞任して、大隈内閣は崩壊した。

 板垣・自由党系は、鉄道建設を国有路線で進めようとしたが、大隈・進歩党系は私鉄など具体的な政策が違いすぎた。増税はしないというのが最初の合意だったが、政権につくと軍備拡張はやらねばならず、支持層の地主からは取れないので広く国民から取ろうとした。

 一般国民からは「党利党略」でやっているのかと見放される。次は山県有朋内閣。山県は政府から政党を閉め出すために文官任用令を改正(1893年)、試験に合格したものでなければ高級官僚にはなれないようにして、政党人を官僚から排除した。

 また、陸軍大臣と海軍大臣は現役に限るとして、将来、政党内閣ができても、軍部は内閣に影響力をもてるようにした。この後も、政党政治は足の引っ張り合いに終始するが、結局、原点である隈板内閣が国民を見ずに支持者の利益を優先する党利党略に走ったことに起因する、と。

[第3回 もたれあう政党と藩閥]

 1905年9月、日露戦争で賠償金を捕れなかったことに民衆の怒りが爆発、日比谷焼打事件が発生。批判の矢面に立った山県有朋はいったん政党に政権を渡すことで藩閥と政党のもたれあい状況を生み出す。ちなみに広さ2万坪の椿山荘は山県有朋の旧邸宅。

 1900年代初頭、軍部はロシアと対抗するため、桂太郎内閣は軍備の増強を急ぎ、地租に対する増税案を発表したが、地主層を地盤とする政友会は猛反発。当時、政友会を率いてた伊藤博文は増税案に反対。ちなみに政友会の創設は1900年。伊藤博文が自らの与党として組織し、明治天皇からは伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた。政友会は衆議院を押さえていたため、貴族院との「ねじれ」で空転した。

 1904年、日露戦争が始まると対立はいったん収束。桂内閣は非常特別税を導入。国民生活は圧迫された。政友会では伊藤博文が退き、西園寺公望が総裁に就任。増税を容認した。ポーツマスの講和会議の行方を、増税に耐えてきた国民は注視していたが、その期待は賠償金がとれないことでついえる。

 怒った数万の民衆が起こしたのが日比谷焼打事件で争乱は数日、続いた。死者17人、負傷者5000人、逮捕者2000人に達し、桂内閣は戒厳令(緊急勅令)を敷く。

 当時、政友会は西園寺総裁だったが、党務を仕切っていたのは後に内務大臣や首相となる原敬。原は、桂太郎から戦争終了後に民衆の怒りが高まることを事前に知らされとおり、西園寺内閣実現を条件に、民衆運動には乗じないことを約束。焼打事件でも沈黙を守った。事件の翌年、西園寺内閣が誕生。西園寺や原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶した。

 以降、1912年まで交代しながら内閣を担う「桂園時代」となる。焼打事件の後06年から13年まで政党と藩閥は相互に政権を担当、衆議院の解散も一回もないほど安定していた(2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけ)。

 軍拡をやりたい藩閥、公共事業をやりたい政友会という互いの利益を尊重して政権が安定していたためで、これは自民党と官僚の関係に似ていた、というのが御厨解説。しかし、1912年、西園寺内閣は深刻な財政悪化に悩まされるようになる。

 西園寺は朝鮮に2個師団を増設するという軍部の要求を蹴ったが、陸軍大臣が辞任して内閣は崩壊。しかし桂内閣が登場すると、閥族打破を叫んで、1913年には数万の群衆が衆議院を囲んで、内閣を打倒。次の内閣は薩摩出身の山本権兵衛が組織し、「桂園体制」は崩壊する。

 政友会は薩摩系の藩閥と結びつくようになり、力をつけ統治能力をつけていった原敬は本格的な政党内閣をつくる、というのが3回目。

[第2回 原敬 政党内閣の光と影]

 1921年、初の本格的な政党内閣を組閣した原敬は愚鈍な愛国青年に暗殺された(大杉栄は「子供」と表したそうです)。個人的な話として祖母は「原さんは男前だったね。それと比べれば佐藤さんなんか」と語っていたのも思い出しますが、原は個人的には清廉潔白ながらも、政友会の勢力拡大を進める中で汚職が蔓延するという弱点を抱えており、地方への公共事業も党利党略とみられ、一般国民は政治不信に陥っていった。

 第一次大戦末期の1918年、米騒動が発生。寺内内閣は倒れ、元老・山県有朋は盛岡藩出身の原敬(爵位を持たぬ平民)を指名。組閣にあったて原は政友会からほとんどの閣僚を選び、藩閥政治から転換を図った。ちなみに芝公園には松方、桂、原と歴代の総理の邸宅が軒を連ねていた、と。

 平民宰相として人気を集めた原だったが、衆議院では過半数に達していなかった。山県有朋がゆさぶりをかけてくる中、原は過半数を取るために選挙権拡大の法改正を目指す(選挙権を得るための納税額の引き下げ&小選挙区制)。1920年の選挙は政友会が全議員の6割を占める圧勝。

 原が徹底的に公共事業誘致などで地方インフラの整備の方針を打ち出したことも圧勝の要因だった。この勝利をバネに文官任用令を改正するなど、藩閥の壁を切り崩していく。このためにポストを武器に枢密院、貴族院、軍部などの取り込みも図った。

 しかし、原は普通選挙(男子のみ)の要求には応じず、平民宰相のイメージを損なう。これは山県有朋が普通選挙に難色を示していたことに配慮したため。また、政友会議員が関わる疑獄事件も発生。党勢の拡大の中で党のコントロールに失敗し、国民からすれば「政友会がやることは党利党略」とみられてしうよようになった。

 その後、山県有朋も亡くなり、時代は政党vs藩閥から二大政党の時代になっていくが「腐敗と足の引っ張り合い」という負の遺産もしっかり受け継がれることになった、というのが2回目。

[第1回 自壊する二大政党]

 原敬に始まる政友会は人気を集め、加藤高明の憲政会とともに1924年には民主主義を進めようとして、やがて男子普通選挙を実現する。しかし、それ以降、両党は選挙を意識した政策の違いを強調するあまり、歩み寄りを忘れた、というのが大まかな話。

 普選を求めて戦われた1924年の選挙で、ともに内閣(当時は官僚+貴族院)に反対した憲政会と政友会は勢力を伸ばし、元老・西園寺公望は第一党の憲政会党首・加藤高明を首班に指名。加藤の死後は若槻礼次郎を指名した。

 若槻内閣は大蔵大臣の失言で東京渡辺銀行が休業に追い込まれるなど27年の金融恐慌を招いたために辞職。台湾銀行は鈴木商店と深い結びつきを持っていたが債権回収不能に陥り、ダブル倒産。

 さらに「松島遊郭事件」で野党は内閣弾劾上奏案を提出。若槻は政友会の田中義一総裁を待合に招いて、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書を交わしたが、予算が通っても辞めないので嘘つき礼次郎と呼ばれる…。

 政党政治の時代となって元老・西園寺は1)首相は第一党の党首2)しかし、第一党が政策的に失敗した場合には、第二党の政権を渡す-という原則をたてていた。

 ということで、元老・西園寺は第二党の政友会・田中義一を首班に指名、政権交代を実現。28年の総選挙となる。この選挙は政権を持つ政友会と、政権を滑り落ちた憲政会が他政党と合同して生まれた民政党との二大政党の争いとなった。この選挙は25歳以上の男性全員で行われた初の選挙で、激増した有権者にアピールするため、両党はわかりやすいスローガンを掲げた。

 政友会は外交・財政とも積極というか強硬路線、民政党は逆に外交は協調路線と緊縮財政を訴えた。避難の応酬の末、政友会は217議席で、216議席の民政党をわずか1議席上回って勝利。そして、勝った政友会・田中義一首相は公約通り山東出兵などを強行する。

 当時、軍部主流派は山東出兵には消極的だったが、やがて暴走する中国・関東州の日本軍(関東軍)は、張作霖を爆殺する事件を起す。田中内閣は首謀者の河本をかばって曖昧に処理しようとしたため、天皇が叱責。この結果、田中内閣は倒れる。

 政友会が失敗したので元老・西園寺は民政党の浜口雄幸に組閣を指示。浜口は緊縮財政、金解禁を断行するが国内は大不況に。さらに世界恐慌が追い打ちをかける。御厨「民政党・浜口内閣の経済政策の失敗は、政友会との政策的な差異を強調しすぎたため」と分析。

 1930年、浜口内閣はロンドンで開かれた海軍軍縮会議において対米英10:7で条約を締結。当時の工業力からすると、日本には破格の好条件だったが、アホな海軍は反発。政友会はこれに同調して軍令事項である兵力を天皇の承諾無しに決めたのは「統帥権干犯」と攻撃。

 軍部との関係を悪化させた浜口首相は、30年にバカな右翼青年によって狙撃され、傷が癒えうちに政友会から登院要求を受け、それが元で亡くなる。元老・西園寺は民政党の若槻に再び組閣するよう指示。若槻は軍部や政友会に対抗して協調外交を展開する。

 31年、民政党に不満を抱くようになっていった軍部は満州事変(柳条湖事件)を起こして満州を占領。事態を収拾できない若槻内閣は退陣。政権の座についたのは、軍部と関係を深めていった政友会の犬養毅だが、軍の若手は政党政治打倒を目指して32年に5.15事件を起こして犬養を射殺。

 元老・西園寺は、もう政党内閣では持たないと判断して海軍の斎藤実に組閣を指示、政党政治は終了、戦後まで復活しなかった。御厨「若槻内閣は満州事変の際に、政友会との大連立構想を打ち出したが、政党のエゴで対立を乗り越えることができなかった」。

 御厨教授は最後に「国民と遊離して政党同士が争いに走ったのが二大政党制の悲劇だった」とまとめます。言外に「自民党が大震災にもかかわらず連立を拒否するというのは、対立を乗り越えられない戦前の悲劇を繰り返すことになる」と言いのでしょうか?

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