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April 30, 2011

『飛鳥の都 シリーズ日本古代史3』

Asuka

『飛鳥の都 シリーズ日本古代史3』吉川真司、岩波新書

 シリーズ日本古代史も3冊目。はじめにで書かれているように、《遣唐使、遣隋使によってもたらされた新しい文明、大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱と続く激動の政治過程》を持つ7世紀を中心に描いたのが『飛鳥の都』。

 いろいろ新しい知見を得ることができたのですが、やはりアジアといいますか中国と朝鮮半島との関係抜きでは日本史は考えられないな、と改めて思いましたね。

 倭国は推古8年に新羅の旧加那領をめぐる戦いに軍勢を送り、その後も百済と高句麗と連携を図りながら新羅を攻めようとしますが、さらには遣隋使を送って新羅を牽制します。そして隋の文帝からは「夜明け前の政務を改めよ」などと訓戒され、推古11年から儀礼整備に乗り出す、というあたりはなるほどな、と(p.20-)。

 この当時、上宮王家(聖徳太子など蘇我氏系)と押坂王家(非蘇我氏系で敏達―彦人大兄―舒明など蘇我氏との血縁を持たない王統)というふたつの王家が存在していた、という指摘は初めて知りました(p.36-)。

 高句麗討伐に失敗した煬帝は618年に揚州江都宮で殺され、あっけなく隋は滅んで唐の世となりますが、太宗の基本方針は新羅王を擁護しつつ、高句麗・百済の三国を融和させることだった、といいます。

 しかし、628年に中国統一を果たすと太宗は東突厥、吐谷渾、高昌を滅ぼし、さらには高句麗侵攻を目指します。これに対抗するために朝鮮三国における権力集中が始まり、それは倭にとっても対岸の火事ではなくなり、それが大化の改新のキッカケにもなっていったというあたりは納得的です(p.51-)。

 倭王朝が高句麗の宮廷クーデターを知ったのは皇極二年(643年)、そして皇極四年(645年)には同じような宮廷クーデターである乙巳の変(いっしのへん)によって蘇我氏はあえなく滅び去り、天皇への権力集中が目的である大化の改新のプロセスが始まる、という説明もなるほどな、と。となかく、大化二年(646年)には部民制が廃止され、それまでの支配層が領有するすべての部民が公民となります。

 さらに倭は北征を行いますが、659年に派遣されていた遣唐使は情報漏洩を防ぐためか長安に留め置かれた状態の時、唐の高宗は山東半島から攻め入って660年に百済を滅亡させます。

 百済の遺将は倭に王子豊璋を帰国させて欲しいと望み、中大兄は兵5000を与えて帰還させます。そして、663年に周留城に籠城していた豊璋を助けるために出した倭国・百済連合による水軍が白村江で大敗。豊璋は高句麗に逃れますが、その高句麗も668年には唐に滅ぼされます。唐は最大版図を実現し、倭の征討計画を始めますが、なんと、新羅の文武王は高句麗王族を冊立して高句麗支配を目指します。さらに、吐蕃がチベットに進撃したのを見計らって、670年には唐が支配する百済旧領へ侵攻する、という行動に出る、と。なかなか新羅はやりますね。

 唐は671年、なんと倭と同盟して新羅を挟撃しようとしますが、この重大事に天智は病を得てしまう、と。そして、大友皇子が後継者に決まりますが、壬申の乱によって自殺、近江朝は瓦解。大海人皇子は飛鳥浄御原宮にで即位します。天武10年に、倭はそれまで天智天皇以来、進められてきた中央集権体制を完成させますが、新羅も680年代には集権体制を完成させるとともに、平時体制へと移行する、というあたりもシンクロします。そして、701年に大宝律令が完成、国号も日本となり、倭の時代は静かに幕を下ろします。

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