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March 12, 2011

『「新約聖書」とその時代』

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『「新約聖書」とその時代』加藤隆、NHK出版

 NHKのラジオ講座のテキストといいますか、語りおろしになるんですかね?

 新約聖書というのは、ある主張に沿った文書を集めて権威を高めるという異端であるマルキオン派の手法を、キリスト教主流派の流れの人々がマネをした結果まとまったのですが、それはある一定の「まとまりのある大きな組織」(p.193)をつくるためにも正典を確立しようとしたというモチーフが強かった、というあたりが新味です。

 初期カトリシズムにつながる流れは、様々な立場からの27もの文書を新約聖書に収めることで、後にローマ帝国の国教となることにも耐えうるような多様性を持たせた、ということで、全体を大きく「生前のイエス」「エルサレム教会」「ヘレニストとマルコ福音書」「パウロ」に分けて解説してくれます。

 加藤先生のご著書はすべて読ませてもらっていますが、「初めて読んだ」と思ったのは以下のようなこと。

1)ペトロがイエスを「キリストだ」と述べると、イエスに叱られたというマルコのエピソードは、ユダヤ人たちの政治的指導者という意味合いが強い「メシア(油注がれし者というヘブライ語のギリシア語訳であるキリスト)」というお手軽な称号で片付けるな、という態度があったのではないかと説明しているところ(p.28)

2)バビロン捕囚後、ローマに支配されたユダヤ民族が実践していた「律法主義」とは、いわば神に捨てられた妻が、かつての夫のが残した「夫婦生活の決まり」を守ろうとするようなことだ、といういい方(p.44)。そうしたことを否定して「神との生き生きした関係において生きる」ことを主張したイエスだったが、十字架事件以降、エルサレムで初期の共同体のリーダーとなったイエスの兄弟ヤコブは、そうした生き生きとした関係が実現できない多くの人々を野放しにできないということで、再び律法主義になっていったのではないか、という流れ(p.46)。

3)ルカ文書にみられるギリシア語優位の姿勢をフェルナン・ブローデルの『文明の文法 世界史講義』にある、ギリシア人たちは支配下の者たちと混じり合わず、田舎に住まずに、植民を行ってコロニーをつくるという手法に求め、それが西洋的な政治理念に沿って、世界支配ができるという今に通じる姿勢につながっているのではないか、という指摘(p.62-)。

4)ヤコブの前に初期共同体を率いたペトロは、手段と目的をはき違えていた、という指摘。村々を巡回指導していたイエスは、少数に弟子たちに日常生活を捨てたライフスタイルを求めましたが、それは活動を分担するためであって、村々に住む普通の人々には、それまでの生活を続けるようにと説いた。しかし、ペトロはその手段と目的をはき違えて、原始共産制的な共同体をつくってしまい、やがて経済的にも倫理的にも立ちゆかなくなる、というクリアカットないい方(p.73-)。

5)キリスト教神学の基礎となるパウロがロマ書で主張した「信仰義認」について、ハバクク書の二章四節から引いている。これは「信じる者は救われる」というものですが、人間が率先して神からの救いを実現できるという立場であり、イエスが説いたような「神と生き生きとした関係をつくることは可能だ」という姿勢からは大きく後退している。もちろんパウロは生前のイエスを知ってはいないのですが、そのことで福音書の描くイエスとは厳しく対立しているし、十字架事件で全ての罪が消えたというパウロの主張は、信じる者は救われる=信じないものは救われないという矛盾も抱える(p.167)

6)初期のキリスト教徒には軍人や裁判官は少なかったが、それは人を殺すという暴力に荷担しないためだったが、四世紀の初めに「寛容令」が出てキリスト教が認められるようになると、軍人になろうとするものが増えた。キリスト教にとっては宗教指導者が信者を束ねるといか「人が人を指導する」という権威を認める方が、倫理的な問題よりも実ははるかに重要であり、こうしたいい加減さというか、対立するものを含むことができるということをローマの当局側は観察していたのではないか、という指摘(p.190-)。

 もっと書きたいのですが、それは読む方の興味をそぐことになるので、やめておきます。

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Comments

私も新約聖書を読んでいます通読しようとかんがえていて現在は『マルコの福音書』を丁寧によんでいるところです。
 佐藤優さんも同志社の神学部出身でしたけど、やっていることは哲学者のようなことだったり、ラスプーチンのようだったり変幻自在です。

Posted by: tanabehajime | March 13, 2011 at 05:12 AM

tanabehajimeさん
西洋哲学をやるのなら、一度は旧約も含めてぜひ通読してみてください。もちろん、新約は何回も。西洋の近代哲学は、聖書のコンメンタール、という言葉もあるぐらいですから。とはいえ、加藤先生のご著書は全てお薦めしておきます。

佐藤優さんに関しては、ここの後半の評価です。
http://pata.air-nifty.com/pata/2005/06/___9e7a.html

Posted by: pata | March 13, 2011 at 08:43 AM

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