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December 12, 2010

『精神医学から臨床哲学へ』

Kimura_bin_my_life_my_world

『精神医学から臨床哲学へ』木村敏、ミネルヴァ書房

 人文、社会・自然科学分野の第一人者による書き下ろしの自伝シリーズ my life my world の第一回配本。

 速水融先生と日高敏隆先生は「刊行のことば」で、研究に限りがないとすれば、このシリーズは自伝が書かれた時点での研究の達成過程を書き、その軌跡を公開することに意義がある、みたいなことをうたっていますが、木村先生の伝記が格別の意味を持つのは、おそらく、日本における精神医学の発達から衰退までの歴史を最先頭でリアルに体験したことにあるのではないでしょうか。

 最後の「跋 精神医学から臨床哲学へ」は、そのまとめとなっていますが、客観的に自分の仕事の大半を否定しながらも、その一部の可能性にまだ賭けている、という静かな気迫が伝わってきます。

 木村先生が精神科医になった一九五六年頃は、電気ショックやインシュリンショック、あるいはロボトミーで暴力的に症状の改善を図る以外には、長期入院で落ち着くのを待つ方法がなかった時代でした。しかし、逆に言えば、ちょっと残酷なようにも聞こえますが、現在のように向精神薬の作用で修飾されていない精神病像を観察することができた、という時代でした。そして、臨床から精神病像を類型化するという長い動きにつながります。

 これに続く以下の文章は、プロの間では常識かもしれませんが、ぼくのような者にとっては「思い切った言い方だな」と思います(p.308)。

 S・フロイト(一八五六~一九三九)の精神分析に始まる力動精神医学や心理療法の諸流派も、今日用いられている向精神薬が、仮に、もう一世紀も前に開発されていたとするならば、現在のような隆盛は見なかったのではないか。『無意識の精神病理』と総称することのできるこれらの理論は、現在のような隆盛は見なかったのではないか。「無意識の精神病理」と総称することのではるこれらの理論はすべて、安易に抗不安剤に頼ることなく、長期間にわたって患者の人性そのものを治療対象とする臨床が生み出したものにほかならない。

 こうした中で木村敏先生は、独自の現象学的・人間学的な精神病理学を展開していくのですが、世界はDMS-IVなどのように誰にでも客観的に判定しうる具体的な症状に基づく薬物投与という方向に向い《統合失調症の背後に自己の個別化の原理に関する危機的な状況がひそんでいるとか、内因性メランコリーが自己の役割期待に対する遅れを舞台にして展開されるとかいった、現象学的あるいは人間学的な言述の入り込む余地はどこにも見あたらなくなった》(p.312)、と。そして、《精神病理学が精神医学の枠内でその存在を脅かされているのであれば、むしろ精神医学をいったん捨てたほうがいいのではないか》として、哲学に接近した臨床哲学を最後の活動の場とすることを宣言して終わります。

 それにしても、ドイツ留学の下宿先の親父さんがクナッパーツブッシュと親友で、いつもスカートというカード遊びをやりに来ていたとか、その方のお葬式にクナッパーツブッシュがミュンヘンフィルの楽団員を連れてきて葬送行進曲を演奏しているのを参列して聴いたとか(p.92)、ハイデガーやヴィンスワンガーに会ったり、ヴィルヘルム・ケンプにピアノ弾いてもらったりするという、もはや伝説の人物との交流はタメ息がでるばかり。

 また、いくつもの近代語スラスラ覚えられたり、自身の八巻に及ぶ著作集の他にも20冊以上の翻訳をものにするなどのアウトプットの多さにはタメ息つきまくり。

 それと、医局の若い人たちと原典を読書会でかみ砕いて読んでいくハードな読書会にかける気力はすごいな、と思います。

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