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October 07, 2010

『最後の授業 心をみる人たちへ』北山修

Kitayam_osamu_last_lecture

『最後の授業 心をみる人たちへ』北山修、みすず書房

 ある時期、北山修さんが作詞した唄が流れない日はない、という時期を経験しました。60年代後半から70年代前半ですかね。

 とんがってもいなくて、ユーモアもあり、時代のうねりみたいなものも感じられて、でもどうしたらいいのかという答えはあえて出さず、静かに撤退していったけど、ちゃんと医学部の精神学科という居場所は確保していて、そこで静かに研鑽することで、なにごとかを示そうとした、という感じを受ける人でしたね。

 不在という形で、関わってくるというか、ふと流れてくる曲が北山修さんのものだと分かった時、「あの人は今何をやっているんだろうな」と思うことで、自分のことも考えさせてくれる。

 その北山修さんも九州大学大学院教授として2010年に退官してしまったというんですから、時間だけはキッチリ流れていくな、ということも感じさせてくれました。

 あえて、北山修さんの本は今まで読まなかったけど、最後ぐらいはつきあうか、ということで手にとりました。

 この本に収録されているのは退官するまで行った授業や講義。NHKの「北山修 最後の授業」という番組でも放送されましたが、やはりその部分がよかったですね。

 万葉集の防人歌が、後世の人たちのために謳われたのではないように、北山さんも個人のパーソナルな思いを詩にしていたのですが(p.39-)、フォーク・クルセダーズの解散記念につくったアルバムをちょっと売ろうかと思ってラジオに持っていったらその中の『帰ってきたヨッパライ』が270万枚売れてしまった、というんです(p.68-)。

 そこで味わったのが、自分の歌をコピーして売りに出すと手元になくなる、という実感だそうです。

 もうひとつ、ここらあたりで語られている「セルフモニタリングの時代」という考え方はハッとさせられました。

 現代人はデジカメ、ビデオその他で「離見の見」でなくても自分を第三者的に見ることが簡単にできるようになりました。

 そして、こうしたセルフモニタリングで最初に感じることは、自分自身の醜さではないでしょうか。

 ぼくも最初にテープで自分の声を聞いた時の狼狽は忘れられません。「こんなに甲高い声で、軽薄にしゃべってんのか、オレは」みたいな。

 でも、最近は北山さんも書いているように、例えば写真映りが悪いなんてことは考えずに、映りの悪いデジカメのイメージはどんどん消すようになっていきます。

 これを北山さんは《セルフモニタリングの時代といっても、結局いいところばかりとっている》《セルフモニタリングの時代になって、今、日本人の自己イメージが結構よくなっているのではないか》(p.63-)と指摘します。

 なるるほどね、と(ニッポン大好きの"自慰史観"なんかも、こんなあたりから出ているんじゃないかな)。

 This is itについて、マイケル・ジャクソンがあれだけリハーサルでも自分の姿をモニターしてしまうと、《自分は自分の操り人形になってしまう》というあたりや、映画の編集作業で「あ、これ消しちゃおう」といって良いものだけを残していくようなプロセスぱかりを進めるとセルフモニタリングが「自惚れ鏡」になってしまう、というあたりの流れも素晴らしかったな。

 ちなみに「自惚れ鏡」という言葉は佐藤忠夫さんの『映画をどう見るか』講談社現代新書にある「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」からとったそうです(p.79)。

 最後に印象的なフレーズを引いて終わります(p.103-)。

 人は、関係が深まれば深まるほど、話が深まれば深まるほど、話が過去へと遡る。

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