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September 12, 2010

『歴史の中の『新約聖書』』

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『歴史の中の『新約聖書』』加藤隆、ちくま新書

 キリスト教自体、日本では最初から相対化されていますし、今の欧米社会でも、そうなりつつあります。

 しかし、19世紀ぐらいまでの「普遍のヨーロッパ」をつくったバックグラウンドとして、その成り立ちを理解することは、まだ重要。

 しかも、日本の場合、相当な知識人でも、本書の185頁にも書かれていますが、ヨハネの「はじめに言葉ありき」でキリスト教全体を論じてしまったり、ほんど読まれていないのが実態ではないでしょうか。

 やはり、聖書とはいっても歴史の中で生まれた文書群なので、それがなぜ「書かれた」のかという根本中の根本の問題も含めて、考える必要があります。

 そうしてじっくり考えると、たとえば4つの福音書が強調していることは、まったく違っていて、それを統一的に理解するというか、整合性のあるものとしてとらえるのは不可能だ、ということがわかります(マルコでは聖霊を与えられていない者は否定され、マタイのイエスは単なる新しい掟の伝達者であり、ヨハネはあまりにもイエス中心主義で書かれている)。

 しかし、いっぱい文書が混在していて、互いに矛盾したことが書かれているという「いい加減さ」というか緩さが、キリスト教を生き延びさせてきたし、戒律といいましょうか律法でガチガチに縛るのでなく人治主義を認めていたことが、国教としても「使える」と判断されたのでないか、というのが著者の言いたいことではないかと思います。

 著者はルカが専門ですが、実はルカが福音書と使徒行伝(ルカ福音書の続編といいますか、元は一緒)で描きたかったことは、洗礼者ヨハネ、イエスから始まって使徒たちへと聖霊が次々と与えられていく登場人物たちが、ある集団(聖霊を与えられていない一般の人々)を指導する、という構造ではないか、というんです。少なくとも、それが当たり前のように描かれている、という指摘は新鮮です。

 そして、第一の使徒であるペトロのように聖霊が与えられているにもかかわらず、あまりうまく共同体をリードできなかったり、指導方針もコロコロ変わって、共同体の中での"序列"も下がってしまうようなケースもあったり、下克上のように中堅幹部的なステファノが重要な役割を発揮したり、弾圧する側に回っていたパウロがローマまで布教させた立役者になったり、いろいろ激しい。

 ちょっとだけ込み入った話をします。使徒行伝の英雄というか、ほとんど主人公であるパウロのことです。

 使徒行伝はパウロがローマまでたどり着き、当時、世界だと考えられていたところ全てを布教しまくって終わりという構造を持っているんですが、本書163頁の《パウロは、イザヤ書を引用してユダヤ人たちを非難しますが、引用の末尾に『(聖霊が)彼らを癒すだろう』という言葉があります。そしてパウロは、『この神の救いは、異邦人に送られた』と述べます》というところは、少し説明が必要なところかもしれません。

 実は、この箇所(使28:27)の翻訳は「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』」という新共同訳などを含めて、「いやさない」と否定形で訳されているところが多いんです。

 しかし原文のギリシア語を見てみると文法的にもμηποτεがどこまで否定するかで逆の解釈が可能であり、未来において、神がユダヤ人をもいやすであろうことを宣言して、融和的な方向で物語を終わらせる方が、実はテキストにもコンテスキトにも沿った内容になります。

 ここはヘブライ語で書かれたイザヤ書の引用ですが、そのギリシア語訳である70人訳の場合「聞く」「理解する」「回心する」の3つの動詞が接続法ということで、語尾形がsinと韻を踏んでいるのに対し、最後の「癒す」は未来形なので、語尾がmaiと異なり、否定の範囲からも逃れている、という解釈が文法的にも成り立ちます。

 つまり「(かたくなな態度にもかかわらず)彼らも最後は立ち帰って、赦されることになるかもしれない」という具合にも訳すべきだし、解釈すべきだ、と。

 ここのパウロの最後の言葉を敷衍すれば「あなたたちユダヤ人のように、見たり聞いたり回心しない民族も救うぐらいなのだから、当然、異邦人にも救いは向けられる。しかも彼らは、あなたたちとは違って、神の言葉に耳を傾けるだろう」という意味になりますが、最終的には、ユダヤ人たちとも和解するわけです。

 つまり、最終的には、ユダヤ人たちとも和解するわけですが、ルカ福音書と使徒行伝は聖霊を与えられた使徒パウロがヨハネ、イエス、ペトロ以下、順々にバトンを受けて、ほぼ世界を神と和解させたという物語である、というわけです。

 最後に、著者の師匠であるトロクメ先生との会話で、ふたつ興味深いものがありました。

 まず、ルカ文書を研究していた著者が、ルカ文書は《「人による人の支配」というローマ帝国の支配の基本構造をキリスト教の側で「流用」しようという構想を打ち出している》のではないかと考えたのですが、トロクメ先生を除く西洋の先生方には、「人による人の支配」という社会制御の構造が、所与のものといいますか、それしかない、と思っていたので、なかなか、そのユニークさが伝わらなかった、というあたり(p.240-)。

 たとえば日本ではメンバーは同質だと考えまし、中国、インド、イスラムでも支配の手法は西洋とは異なります。

 しかし、西洋では自由な主人が奴隷を支配するようなの「人による人の支配」が当たり前で《ですから近代になって、「自由」になることが際だって重要なことになってい》る、と(p.242)。これが顕著なのが「指導者たちによる他の者たちの支配」を当然のように描き、続出する様々な事態に対処するには、ペトロのような失敗はあるものの(最初は共同体への参加には全ての私有財産を差し出すように求めたが、やがて、それに違反するような者が出たために後退する)、とにかくこのやり方しかないんだ、ということが前提となっています。

 もうひとつはあとがき。

 聖書は各文書を別々に考えて理解するしかなく、いろいろな文書からごちゃまぜに引用するような《教会の説教だけでなく、古代から中世そして近代の有名な神学者の本なども》無価値だとしたあと《トロクメ先生と、こんな話しをしたことがあります。聖書学の本も含めて、進学の本というのは、そのほとんどが価値がない。でも、その本に価値がいなかとどうかは、読んでみなければわからない、と先生が言って、二人でため息をついた》というんです。

 この本は、少なくとも、聖書を理解しようか、という方にとっては、効率の良い本です。

[目次]
第1章 一神教の発想と展開
ユダヤ教とキリスト教
本格的な「一神教」の成立
「律法」と「神殿」

第2章 イエスとエルサレムの共同体
なぜイエスなのか
ペトロの共同体

第3章 エルサレム教会からの二つの分派
ヘレニストの分離
マルコ福音書
パウロの手法

第4章 ユダヤ戦争後の模索
マタイ福音書
ルカ文書
ヨハネ福音書

第5章 新約聖書の権威
マルキオンの聖書
キリスト教とローマ帝国
新約聖書の成立

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