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July 25, 2010

『私の日本語雑記』

Watashi_no_nihongo_zakki

『私の日本語雑記』中井久夫、岩波書店

 中井先生曰く、岩波の編集に乗せられて『図書』に連載した日本語についての"ひとり座談会"。

 精神分析の臨床医という立場から、日本語の使用者として考えてきたという中井先生の独自の視点は「日本語には対話構造が埋設されている」というあたり。

 ということで全18章の始まりは「間投詞」。

 なんと「あのー」から。

 《講演の「あのー」は割り込みではない。二つの言葉の間で迷ったり、次に語るべきことは何かと記憶を呼び覚ましたりするための小休止である》(p.5)というあたりから始まるのには驚きました。

 2章の「センテンスを終える難しさ」で、ブラジル人の女性医師が語ったという《ある主張をしながら表情をみていて、相手の表情から「あ、まずい、相手の見解は反対だ。機嫌を損ねてしまうだけに終わる」と判断すると、最後のところで「…というようなことはありません」とか「とは思ってもみませんが」とひっくり返せばよい》(p.17)という日本語の便利さは目ウロコですね。スペイン語みたいに疑問符や感嘆符を逆さまにしてセンテンスの前につけるようなのとは大違い。

 そして《対話性を秘めている日本語の文章には第三の聴き手がいて、本当の対話相手は目に見えない、いわば「世間」のようなものではないかと思えてくる。「ではなかろうか」「というわけである」「なのである」などと言うのは世間というアンパイアの賛成を得ようとしてのことではないだろうか》(p.33)というところまで考察が進みます。

 こうした丁寧さを示しつつ問い掛けの含みを持たせる文末は、中国の人たちなどからは、長すぎて内容に乏しい、と見られるようですが、やわらかに相手の発語に接続していく、という機能があるのかもしれません。

 鎌倉から室町にかけて日本では識字者が激減したおかげで日本語は文字の束縛から解き放たれた、なんてあたりも面白い(p.27)。

 この調子で紹介していくと、読書の楽しみを奪いかねませんので、いい加減やめますが、日本語は動詞に動詞を重ねてゆくことができるというポーランドの言語学者の寄稿の紹介も目ウロコでした。

 日本のDNAの多様性みたいな話の中から、これは言葉の話とは違いますが、Y染色体はひ弱で、10万年たてば、その消滅によって人類は死滅するか、女性だけで子孫を残す方法を発見するかいずれかになる、というブライアン・サイクスの話も面白かった(p.84)。

 これは専門家にとっては常識なのかもしれませんが《日本語は、本来品詞の区別のない中国語の語彙に、「てにをは」の格助詞を付けて名詞として、「す(する)」を付けて動詞として、「たり」「なり(だ)」をつけて形容(動)詞としてそれぞれ機能させ、小辞は「すなわち」「それ」などと読み替え、既存の文法的小道具を採用して、この大孤立語をまんまと膠着語に変えてしまった》(p.92-)あたりも、なるほどな、と。

 《日本語の無知を笑う人は実は漢語の使い方の間違いを笑っていることが多い。死語は死ぬことによって代替不可能の地位を獲得した》(p.103)あたりも反省させられます。

 「したたるほどのイメージ」が喚起されると紹介されていた『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之 (訳) はゲットしました。

 長詩『若きパルク』の転換が1916年のヴェルダン戦の絶頂期になされ、ウィトゲンシュタインもその時期に思想的転換を行っていたという指摘も素晴らしい(p.173)。

 異性の発情の徴候を読む能力は性交率を高めるが、この能力が空を打った時に統合失調症になりやすいという仮説は、著者ならではのものでしょう(p.227)。

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