『 ハイデッガー カッセル講演』#2
『 ハイデッガー カッセル講演』#2
第六回講義「歴史性の意味についての現象学的な問いは人間の存在についての問いである」の後半にギリシア語をつかって説明するところがありますので、チラッとみていきたいと思います。
ハイデッガーは現存在について、不特定の「ひと」が話して判断することなどによって支配されていると考え《私たちはたいていのばあい自分自身ではあらず、ほかのひとびとであり、私たちはほかのひとびとによって生きられているのです》としています。(p.88)。
人という現存在には、世界にたいする配慮的気遣いの中で自分を喪失して自己自身から転落するという傾向があり、人間は日常性においては非本来的に存在しており、この非本来的存在こそ人間の現存在の第一次的な現実性格にほかならないとも書いていますが、ここらへんは難しいなぁ(pp.88-)。
ということで、ハイデッガーはいきなりギリシア語にふり、人間とはロゴス(言葉・理性)を持つ動物であると定義される、とします。
翻訳で引いているハイデッガーの文章はzoon logon echonですが、ギリシア語では ζῷον λόγον ἔχον となります*1
日本語ではよく「ロゴス的人間」なんて言われ方もしますが、直訳するとハイデッガーの書いている通り「ロゴス(言葉・理性)を持つ動物」となります。
ロゴスはδηλοω「あらわにする」ことであり、たんにおしゃべりの中で頽落することではないが、何から何まで自分で見て立証した上で語るのは不可能であり、《おしゃべりの世界が広がれば広がるほど、それだけますます世界はおおい隠されてしま》うということになりかねません(pp.89-90)。
これをハイデッガーは《現存在が自分自身から公共性のなかに逃避する》と表現し、《現存在の本来の存在性格は気遣い(Sorge)》であり、人間の現存在は《いまだに存在しない[あらぬ]部分をつねに前にもつ生きているもの》と規定します。
だから《生が終わり、全体となったときには、生はまさしくもはや存在していない》のであり、現存在は自分固有のものであり私自身のものだ、ということになります(p.90-)。
*1 日本語のフォントではζωον λογον εχονです、念のため。
ちなみに、ハイデッガー自身もここをzoon logos echonとロゴスを単数形に誤記しているそうです。
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