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April 29, 2010

『蕎麦屋の系図』

Soba

『蕎麦屋の系図』岩崎信也、光文社新書

 粉食として始まった蕎麦粉の考察と、今も残る名店の系譜を二本の柱に、蕎麦の歴史をコンパクトに理解させてもらった感じがします。
  
 石臼が農山村に普及するのは江戸時代中期以降と新しく、これは粉食の伝統がないからだ、というあたりはハッとさせられます(はじめに)。
  
 昔は蕎麦掻き、蕎麦餅も含めて「蕎麦」でした。いまのような麺になったのは比較的新しいということは知っていましたが、文献上、最初にあらわれるのは1574年に長野・定勝寺の修復工事に「ソハキリ」が振る舞われたという記述だというのは知りませんでした(p.17)。また、醤油を使った蕎麦つゆが普及するのは江戸時代中期以降で、それまでは垂れ味噌などが使われていたそうです(p.23)。
 
 江戸は庶民の文化が成熟した時代でしたが、この時期に「もり」「かけ」「ざる」の違いも生まれ、あと「二八そば」というのは2*8=16文というかけ算だったというのは知らなかったなぁ。
 
 「そば切りや ばかり看板 九九で書」なんて川柳もあったそうで、なんかイキですよね(p.39)。
 
 同じ川柳ですが「山十に 土佐を遣ふと かつぎいひ」というがあるそうで、これは下り醤油(つまり本場の上方から廻船で運ばれてくるブランド醤油)と土佐の鰹節をつかっていると蕎麦屋の出前持ちが自慢してらぁ、みたいな意味だそうですが、今のようなつゆの原型が出来たのは化政時代ではないか、と推測しています(p.56)。
 
 歌舞伎『助六所縁江戸桜』の「美男、子安や馬の鞍、六軒堀を飛び出して、大芝、芝口食いつめて原田屋の子分となり」というセリフの美男、子安は蕎麦職人専門の口入れ宿だったそうです(p.63)。知らなかったなぁ。
 
 大阪城築城の際に砂利置き場として使われていた所にそばにあったから「砂場」と呼ばれるようになり、それが今でも東京に残る名店の系譜になっているというあたりの話も、これだけのボリュームでは初めて読ませてもらいました。
 
 更級、藪の歴史も巷間伝えられているのとはだいぶ違う話が聞けて、面白かったですね。

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