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December 30, 2009

『1968』#1 後藤田正晴と戦後精神

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 『1968』小熊英二を読んだのですが、こんなにツライ読書というのは、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読んだ時以来じゃないかな、と感じています。まったく救いがない、というか…。

 「でも私には何もないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?」という女子学生の言葉で始まり、その言葉で終わる"物語"を2000頁も読ませるという著者の力量というのは、すごいな、と感じます。

 著者の言いたいことは、当時の若者たちの叛乱は、高度成長に対する集団摩擦現象・表現行為であり、政治運動としては稚拙だったのは当たり前の実存的自己確認運動だった、ということ。そして、それは高度成長を前提とした安全な冒険だった、ということ。でも、だからこそ、その前提が崩れたいま、現代的不幸に初めて遭遇してそれに対して少なくとももがいてみせた彼らの失敗から、学ぶべきではないか、というものでしょう。

 この結論に対しては、全共闘を経験した団塊の世代から、強烈な反発を喰らっています。まあ、自分たちの存在を否定されたようなものでしょうからね。

 しかし、歴史というのは、それが起きた時には若かった世代が書くものですし、時には後ろから袈裟懸けで切られるようなものなので、当事者が断罪されるのは仕方ないと思います。だから、細かな部分の訂正を求めて、それが多すぎるという理由から、本書の価値を貶めるという「彼ら」の姿勢というのは、ちょっとみっともないな、と感じています。ぼく自身としては「あれ」はなんだったのか、ということに関して、少なくとも初めて大づかみな見取り図が出てきたんじゃないかと思います。

 まあ、そんなんで、いろいろ書かれているので、ぼくあたりが全体を通して、どう評価するのか、なんていうのを書いてもつまらないと思いまして、読みながら感じたことを、ポツリポツリと何回かに分けて書こうと思います。
 
 ということで、いきなり下巻。

 連合赤軍のところで、ぼくが知らなかっただけなのかもしれませんが、「そうだったのか…やられたわな」と思ったところがありました。

[新左翼の時代を終わらせた後藤田]

 「あさま山荘」に立てこもった五人を殺さずに逮捕しろという指令は後藤田警察庁長官から出されたというのは知っていました。「射殺すると殉教者になり今後も尾をひく」というのがその理由。しかし、リンチ殺人に関しては、かなり以前から、仲間内で殺し合いをやっているという情報を掴んでいて泳がしていた、ということろまで考えられるのかもしれない、というのは初めて知りました。

 あさま山荘事件は1972年2月19日に始まりましたが、その前に連合赤軍の連中が"訓練"していた榛名ベースに向かう直前に逮捕された赤軍派メンバーは、1月10日ごろ、取調べの警察官から「山で、何が起きているのか知っているのか。死者が出ているんだぞ」と言われたといいます。

 また、2月19日の時点では逮捕されていた永田に接見しようとした弁護士に、警察官が「あの事件はひどいですねえ。地面の下から死体がゴロゴロでてきて」とカマをかけてきたそうです。

 また、リンチされた死体発掘は3月7日から13日にかけて数体ずつ行われ、連日にわたって「今日は何体」という予告のもと、記者席みたいなのも用意された中で行われたそうです。こうしたことが行われた背景には、死体解剖を依頼していた群馬大学医学部の法医学部のキャパシティに問題もあったようですが、ご丁寧にいったん発掘した遺体を埋め直して、発掘するところをテレビカメラで撮影してもらっていたそうです(pp.653-)。

 立てこもり事件からリンチ殺人の凄惨さがあばかれた2ヶ月間の報道で、それまで心情的にせよ新左翼を支持していたような層も、波が引くようにいなくなり、それ以降は、さらに大衆的な支持などまったく失われた状態での内ゲバによって新左翼は自滅していきます。

 これだけのことを構想できたのは、もちろん、確かめようもありませんが、後藤田正晴さんではないでしょうかね。

[旧軍復活の芽を摘み取った後藤田]

 後藤田正晴は警察官僚として、もうひとつ卓抜な仕事をしています。

 朝鮮戦争が勃発して、米軍が朝鮮に出て行ってしまうと、日本国内の治安が問題になり、また再軍備も視野に入ってきました。そこで、後の自衛隊となる警察予備隊をつくるんですが、ここでGHQには二派があった、といいます。

 ひとつは「小ヒトラー」と呼ばれた反共主義者ウィロビー。もうひとつは日本国憲法の草案作成を指揮したホイットニー。

 ウィロビーが警察予備隊の中心に考えていたのは、なんと辻政信とともにノモンハン事件やガダルカナル島の戦いで大敗北を喫して多くの戦死者を出した服部卓四郎。

 これに対抗するためホイットニーは後藤田正晴と結び、旧軍上層部を警察予備隊から排除し、募集も最初は少佐まで、最後も大佐までにしか門戸を広げませんでした。入隊させる前には吉田茂が英国大使時代に駐在武官だった辰巳栄一元中将によって思想面のチェックを入れました。さらに、連隊長クラスで入れた35歳前後の者にはアメリカ式訓練を受けさせるとともに、警察官僚を内局に送り込み、怪しい動きを内部からチェックさせるというシステムをつくりあげたといいます(『情と理 後藤田正晴回顧録 上』講談社、1998、p.104-)。

 これを、もう少しわかりやすく言うと、内務官僚や県知事(戦前は内務官僚が知事に就いていた)が師団長や方面総監になり、内務官僚出の警察官僚が内局を握って自衛隊という実力部隊を支配するという独自のシヴリアン・コントロールのシステムをつくった、というわけです(『戦争する脳』計見一雄、平凡社新書、p.35-)。

[高度成長と安定成長を下支えした後藤田]

 ということは、警察予備隊を発足させ、占領終了後の"牙を抜いた"自衛隊創設に道を切り開き、その後の高度成長の下支えを行い、高度成長後のヒズミによって起こった大衆的な反乱と新左翼の伸長を押さえて、その後の安定成長路線の道を切り開いたのは後藤田さんということになるんじゃないかな、と『1968』を読みながらボーッと考えていたという次第です。

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