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September 06, 2009

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#9

[第5部 「私」と言語]

 最後はアッサリ。

 5部は出だしがいいんですよね。

 規則問題と独我問題という二つの根本問題の解決によって切り開かれたこの思考は、言語を言語たらしめ、人間を人間たらしめ、人間と自然を絶対的に切り離しているものの根源へと限りなく掘り進んでゆく運動そのものであり、その結果として思考と言語の根底岩盤に我々が突き当たったときに開ける新しい光景であり、その中で我々が常に狂気と接していることの確認であった。

 しかし、『探求』はその端緒を我々に示したにすぎず、「意味」「理解」「思考」といった根本的諸概念は制度内的存在であることを示したにすぎない、と。

 『探求』でウィトゲンシュタインは「規則に従う」ということで言語の根底に到達しました。「言語ゲーム」の根底にあるのは、実は規則ではなく「数を数える」「同じことを続ける」といった《それ以上は分解も分析も分析もできない原初的な実践であることを見出した》わけですが、ウィトゲンシュタインが次に進んだのは、「規則に従う」という実践からどのように「規則」が生み出されているのか、という問題です。

 誰がやっても同じ結果になる判断は、次第に固定化され規則へと硬化されていくと考えます。そうなると、硬化された論理と、それを元に個々の言語使用者が具体的判断に対して、その確実性を表明することによりそれが新たな規則や基準になる、という二段階の規則が存在することになります。《ウィトゲンシュタインが『確実性』で描きだそうとしてるのは、内部に明確な構造を持った命題体系という上部構造と、それを下で支え、同時ににそれを生み出している無数の原初的実践という下部構造の二階建ての知識像なのである》と(p.279)。

 そして《最も確実なものはある意味で無根拠である。しかしそれは恣意的であるとか、でたらめであるという意味ではなく、それ以上に確かなものはないという意味なのである》と(p.386)。

 人間以外の動物も硬化した規則を持って、それに従っているというか適切な反応を行っていますが、《言語を知ることと反応の体系とを区別するものこそ、単なる語の運用能力ではない本来の「知る」ことである》と(p.404)。

 そして私であるというということは、私の魂が私的言語に内容を与えることが存在証明となっており、それが絶対的な「私」だとまとめます(p.415)。

 鬼界さんが引用しているところではありませんが、『確実性』のこの言葉で締めくくりたいと思います。

 現に私が間違えているにしても、私には、「こんなことを私が間違えるはずはない」と主張する権利がある。(『確実性』SS663)

 もちろん、それが硬化していくかどうかは、実践が決めるわけですが、下部構造を基盤に豊かな内容を新たに生み出していくのが「私」なのかな、と。

 長い、つたないまとめを読んでいただき、ありがとうございました。

 だいぶたちましたが、素晴らしい本を読ませていただいた鬼界先生にも感謝しています。ありがとうございました。

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