« 中本・新宿店の北極涼麺 | Main | 「てんぷら山の上」の季節の天丼 »

September 02, 2009

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#7

[第4部 『哲学探究』の思想]の前半

 長々と書いていてもしょうがないので、本当に「なるほど!」と感じたところだけを…

 鬼界さんのこの本は素晴らしいと思うのですが、ちょっと不満なのが主著からの引用が「もうちょっとシャープなところがあるんじゃないの」とか「その前後にもっといいところがあるのに…」と感じられるところ。

 曖昧さが日常言語の中では大切、というあたりで『探求』のSS70《「私が「大地は完全におおわれていた」という記述をするとき、あなたは、私が植物の定義を下せない限り自分の語っていることについて何もわかっていないと言いたいのだろうか》を引用しているのですが、これならば次のSS71《<ゲーム>という概念は輪郭のぼやけた概念だという言うことができる。-「だが、ぼやけた概念など、そもそも概念なのか。」-ピンボケの写真はそもそも人間の映像なのか。そのうえ、ピンボケの映像をはっきりした映像でおきかえることが、いつも都合のいいことなのか。ピンボケのものこそ、まさにしばしばわれわれの必要とするものではないか》という方がピッタリとはまると思います。まあ、手稿と刊行された主著との関連で植物がらみのことを引用したかったのだというのはわかりますが…。

 『論考』時代のウィトゲンシュタインは、論理は自然的事実に先立つ何かであり、反自然主義的観点に立っていたのですが(p.238)、こうした概念の曖昧さ・不確定さは日常言語の本質で、逆に厳密化されると別のものになってしまい、計算主義の批判にもつながっていく、と(p.232)。そして言語ゲームの概念に入っていく、と。それは『論考』の写像理論では、叙述文以外の広大な言語領域の意味をほとんど説明できないからだ、と(p.247)。

 我々の生活は無限の行為の織りなす巨大なネットワークであり、ある種の単純な劇(シュピール Spiel)の集まりとみなすことができ、ウィトゲンシュタインはそれを言語ゲーム(Sprachspiel)と呼んだのだ、と。鬼界さんはspielには「ゲーム」「遊び」「劇」という三つの意味の要素がブレンドされていて、「言語ゲーム」は我々の生活にくり返し現われる活動のパターンであり、ウィトゲンシュタインもいろいろな文章で「人生のパターン」「人生という織物のパターン」と書いていると紹介してくれていますが、なるほど言語ゲームとは、数式みたいなパターンを認識することなのかな、と感じた次第です。

 そして数列問題に入っていくのですが、その直前のp.274

 ウィトゲンシュタインの思考の求めるものは、あらゆる言葉が言語として機能する根本条件としてすでに前提され、それ自身はいかなる言葉によっても語りえないような根源であり、我々のあらゆる探求の鋤を跳ね返す岩盤(cf.『探求』SS217)なのである。それ自身は語りえないが、語ることを可能とする何かを求めるという点で、『探求』の思考は『論考』の思考に極めて似た方向性を持っているのである。

 というのは素晴らしいまとめだと感じました。

|

« 中本・新宿店の北極涼麺 | Main | 「てんぷら山の上」の季節の天丼 »

「書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/46102053

Listed below are links to weblogs that reference 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#7:

« 中本・新宿店の北極涼麺 | Main | 「てんぷら山の上」の季節の天丼 »