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August 01, 2009

『はじめての言語ゲーム』

Hajimeteno_gengo_game

『はじめての言語ゲーム』橋爪大三郎、講談社現代新書

 一読、驚愕しました。

 たんにぼくがこれまでチンプンカンプンだったのかもしれませんが、ヴィトゲンシュタインの書いてきた意味って、こうだったんだ!ということが晴れやかにわかった気がします。

 一応、大学時代には『論考』や『探求』は読みましたよ。でも、それは長谷川宏訳の出る前に一生懸命、字面だけを追っていたヘーゲルの著書と同じで、わけもわからず読んでいた、という感じでした。

 その後も修士課程で私的言語は可能かという問題の演習もやりましたしやクリプキの『パラドックス』も読みましたが(どちらも贅沢すぎるのですが永井均先生のゼミにもぐり込んで…)、なんかずっとヴィトゲンシュタインの周りをうろうろと回っていただけのような気がします。わけも分らず読んでいたということが悔しくて、気に入ったフレーズだけを時々使ってみるとか、今思えば、なさけないことばかりやっていたような気がします。

 そうしたパーソナルな群盲象を撫でる状態がずっと続いていたわけですが、橋爪さんの本によって、ヴィトゲンシュタインの業績が、初めて統一感を持って感じることができました。

 体裁はお手軽な新書版ですが、よく練られています。

 なにせ構想20年とのこと。

 橋爪さんのヴィトゲンシュタイン論つうか言語ゲーム論は、もう30年以上前に書かれた『言語ゲームと社会理論――ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(勁草書房 1985年)も読みましたが、その時にモヤモヤしていたものがスッキリ、クッキリ、社会学者らしくあからさまに、ありがたみもない状態で今回は説明されいます。

 本の内容を思いっきりサマライズすると

1)アリストテレスの古典的な論理学を数学と統合しようと考えたラッセルは、記号論理学と集合論をベースとした現代数学を統合しようと考え、様々な矛盾を排するために集合をタイプ別に分けるタイプ理論を考え出した。

2)ラッセルは論理学によって数学を基礎づけることに関心があったが、弟子のヴィトゲンシュタインは論理学を、この世界に関して徹底的に考える道具とみなしていた。それは彼自身が従軍した第一次世界大戦の悲惨な体験によって、このままではヨーロッパ、世界が滅びると考えたからだ。ヴィトゲンシュタインは、世界の価値(大事なこと)と意味(そのわけ)を論証するというテーマを重ね合わせ、自身の哲学によって世界を救いたいと考えた。

3)「このバラは赤い」は要素命題であり、バラに対応するモノがあり、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから、言葉は意味を持つというのが『論考』の考え方。言語も世界も分析可能であり、分解していけば要素に行き着く。

4)世界(可能な出来事の全体)から、言語(可能な命題の全体=考え得ることの全体)に一対一の対応がつけられる。言語の限界は私の思考の限界であり、言語は私の思考に他ならない。だから世界はすっぽり私の頭の中に入ってしまう(独我論)。

5)『論考』のエッセンスは世界は分析可能であり、言語も分析可能であり、世界と言語とは互いに写像関係にあり、一対一で対応している。これは「言語と世界が対応するように言葉を使え」ともいえる。『論考』の「7 語りえぬことについては、沈黙しなければならない」の意味は、こうしたやり方以外での言語の使用を禁じるという意味ではないか。

6)しかし、科学の言語は一対一で世界と対応するが、それ以外のあり方をする言語もある。そうした言語の意味を、一般的に成り立たせている原理は「ゲームの理論」だ。

7)私たちが言語を話せるようになったのは、言葉を理解したからであって文法を教わったからではない。数列の並びを理解するように、いくつか実例をやっているうちに「わかった!」となる。社会は言語ゲームの集まりであり、ある人々が何かの規則で言語ゲームをやっているそばを通りかかった私は、それを見ているうちにナニをやっているかだんだんわかってきて、仲間に入ることもできる。『論考』時代は「言語と世界は一対一に対応する」という写像理論によって、言葉が意味を持つという根拠付けを行っていたが、後期のヴィトゲンシュタインは、言語ゲームをその根拠としている。

8)他人の痛みは理解できないが、ふるまいの一致によって相手の痛みを学ぶことができ、その痛みを共有しているという確信が生まれる。自分が痛いから「痛い」というのは、相手が「痛い」という権利を認めることでなければならない。と同時に、言語は「私的言語」は不可能になる。

9)数列の並びから規則(ルール)を理解できれば、言葉が理解できたとことになり、数と言葉は同じ起原を持つ。人間が数列を理解しなければ、数列は存在しない。規則(ルール)は、この世界を世界たらしめている、究極の根拠となっている。

10)懐疑論は、世界を無意味で無価値にする陰謀であり、ヴィトゲンシュタインは徹底的にパラドクスなどを考え抜いて言語ゲームの確かさを確信していった。懐疑が深ければ、確かめられる信頼も厚いからだ(ぼくなどは、なぜ、こんなに深く例外やパラドクスを探しているんだろう…ということばかりに気をとられていました。あるいは突拍子もない疑問を考えるのが哲学の課題だとか…)

11)ものを疑うにせよ、懐疑するという言語ゲームを行っていることは決して疑えない。

 後は、ヴィトゲンシュタインの考え方の応用が書かれていて、それも充実した内容になっていますが、それはお読みになってください。

 一時期、ヴィトゲンシュタインの宗教的側面を重視するという本が多く書かれましたが、例えば、『論考』にしても『探求』にしても番号が振り分けられているとか(聖書も後から付け加えられたものですが、各節に番号がふってあります)、『哲学探究』の2に出てくる「建築家」という大修館書店版の訳に関して、マタイ21:42などをがヴィトゲンシュタインの頭にあったのではないかということで、「石工」と考えるといいというのは素晴らしい指摘だと感じました(p.110-)。

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