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August 27, 2009

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#5

[後スランプ期]

 否定、連言、選言、条件といった「論理定項」は古典力学で考えられていた天空を満たす物質「エーテル」(Luminiferous Aether)のようなイメージだと考えればいいんでしょうかね…。光が伝播するための媒質がエーテルであるならば、言葉が伝播するためには論理定項が必要であり、「論理空間」にはこうした論理定項が満たされいる、みたいな…。ところが、空間には重力場によるゆがみが生じるように、「論理空間」にも「私」というゆがみが生じる、みたいな大づかみができるのかな、みたいなことを考えながら読んでいました。

 鬼界さんによると「論理空間」という概念に到達したウィトゲンシュタインは、世界の構成要素の解明、という問題に進んでいき、やがてこの問題は「単純な対象とは何か」という限定された問いに収斂されていきます。これが『論考』5.6の《私の言語の限界が私の世界の限界である》の源泉である、と。言語化された世界の最も単純な構成要素は何かを問うことで、語りうる事柄の総体を限定しようとしたんだ、と。

 このためには概念一覧表あるいはカテゴリー表と全存在者の名簿をつくることが必要になってきますが、ウィトゲンシュタインは『論考』で、この問題を放棄している、と(個人的な話ですが、無手勝流で本読んでいた時期が長かったのでアリストテレスからカントまでカテゴリーという概念をすっとばして読んでいて、結果的に随分、遠回りしました)。そして、この対象とは何かという問題が解答不能であると考えたのは、言語に私的な部分を発見したからだ、と。

 何が対象かを知ろうとすれば、全ての命題を分析し、「単純」とは何を意味するのかを問わなければなりませんが、この問題へのアプローチには何が最小単位かを決める分析的単純概念と、人間に備わっている対象化能力をベースにした論理的単純概念がある、と。分析的単純概念は科学によってしか決定できないが、対象化-命名作用という論理的操作によってあらゆるものを対象にできる、と。人間は自分が語りたいことをそののま語ってこられたのは、言語に内包される対象化-命名という論理操作によってである、と。

 鬼界さんのまとめである《『論考』の「名」と「対象」はもののあり方に即した存在論的概念ではなく、話者の意図する思考に即した論理的な概念である》(p.114)というのはなるほどな、と。

 ウィトゲンシュタインは『論考』5.55で《今や我々は要素命題の可能な形式に関する問いにアプリオリに答えなければならない。要素命題は名からなる。しかし我々は異なった意味を持つ名の個数を陳述できないので、要素命題の合成をも陳述できない》としていますが、その理由はあげられていません。そして『論考』は5.6の有名な《私の言語の限界が私の世界の限界を意味する》に続きます。

 この間5.551-557までに、我々の日常会話は論理的に順調である、とも書かれていますが、これは、《我々が何かを語る際、常にそこには「これ」や「このように」が隠されていて(中略)対象化作用なしにいかなる論理操作もないから、論理と「私」は不可分であり、論理によって支えられている言語は「私」と不可分である》(pp.117-)という結論に至ったからだ、と。

 唯我論につながる《語るということ、意味するということ、思考するということ、そして言語を持つということ、それらの可能性は「私」の存在と不可分なのである》(p.121)というのがまとめです。

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