『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#6
[第3部 生をめぐる思考]
《6.43 善なる意図、又は邪悪なる意図が世界を変えるならば、その意図は世界の限界のみを変えうるのであって、事実、即ち言語によって実現されうること、を変えることはできないのである。幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である》
《6.431 また同じく、死に際しても世界が変るのではなく、世界が終わるのである》
《6.4311 死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終わりを欠いている》
というのは『論考』の中でも、最も人口に膾炙されているというか、独立したアフォリズムとしても引用されるところだと思いますが、まあ、今回は簡単にいいな、と思ったところだけを…。
鬼界さんによると「世界は私の世界である」という表現は『論考』の5.62と5.641に登場するそうで、それぞれグローバルな非日常的な「私」と善悪と倫理の担い手であるローカルな「私」を表しており、これによって『論考』には二つの独我論が存在する、としています。そして、それは言語の客観的部分と私的部分を表している、と。
自然的生活を営む生き物が善悪という意味を帯びることはありません。人間に善悪という意味が生まれたのは自我が生じるからで、それは意志と不可分な存在である、と(p.171)。
しかし、そうなると、対象化しえないものを世界の内部から除去することによって「意志」はやせ細っていきます。
《全ての経験が世界であり、そして主体を必要としない。意志行為は経験ではない》と『草稿』p.283でメモされた考えは、『論考』6.423 では《倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心を引くにすぎない》とまで書かれます。
しかし、鬼界さんはこうした解決は極めて不十分だといいます。なぜなら
「私がやった」という答えに対しては「『私』とは誰か」となお問いうるのであり(中略)ウィトゲンシュタインがこの「私」に出会うまではに、なお気が遠くなるほど困難で長い思考の旅が必要なのである。(p.191)
という感じですが、
たぶん明日、照明灯係に志願し上に登る。その時はじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。たぶん死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ我を照らしたまえ。
という印象的なMS103, pp.8v-9v; 1916.5.4と引用箇所が示された箇所は大修館の全集版『草稿1914-1916』には載ってませんよね…。
大修館の全集版『草稿1914-1916』は1961年に刊行されたNotebooks 1914-1716を元にしていますが、これもMS103なんですよね。研究者でないのでわからないのですが、未発表の草稿の部分ということなんでしょうか。鬼界さんによる参照方法の説明によると、一次手稿MS103の第8葉裏面から第8葉裏面まで、という意味で、CD-ROM版でも買えば読めるのかもしれませんね。原文、読みたいところです。
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