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August 20, 2009

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』#1

Wittgenstein_1921_1951

『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912‐1951』鬼界彰夫、講談社現代新書

 これは随分前に買って、ウィトゲンシュタインの遺稿のCD-ROM完全版が出たという情報だけで満足して、なんかそのままにしておいたんですが、橋爪大三郎さんが『はじめての言語ゲーム』でも影響を受けたと書いてあったので、読んでみました。

 というか、2003年にもっとちゃんと読んでいればよかったのに、なんか単にレファレンス的にサラッと目的ページだけ読んだみたいだったんですよ。

 で、今回ちゃんと読んだらよかったんですが、まあ、なーんもわかんなかったんだな、と思いますね、当時は。

 ただね、ヘーゲルも10代の時に読んでなーんも分らなかったけど、30代で長谷川宏訳を読んで「わかった!」となった時と同じぐらいの感動があるんですよ。

 去年はハイデガーに関して「わかった!」があったんですが、個人的には今年の夏はウィトゲンシュタインに「わかった!」した夏だったな、と思います。

 まあ、単に「わかった気」になっているだけなのかもしれませんし、ホトホト自分の頭の悪さには驚くんですが、とにかく、夏休みの終わったのでボチボチ再開します。

 大学院時代に充てられた箇所をレポートする時に下書きで書いた苦し紛れのテキストも見つかったので(なんかギリシア語に関する知識でカッコつけているところや、先生に媚び売ってるようなところが痛々しい…)、その苦闘ぶりも含めて、とりあえず…アップしておきます。

 『ウィトゲンシュタインのパラドックス』について

S.A.クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(黒崎宏訳、産業図書、1983年)はL.ウィトゲンシュタインの後期の著作である『哲学的探究』(ウィトゲンシュタイン全集8・大修館書店) を解釈した本です。章分けもない『哲学的探究』の内容を簡単に説明するのは困難ですが、大まかに分けると、前半は言語ゲーム論、中盤が規則遵守、後半の私的言語論が議論の中心です。そして、クリプキが最重要と見ているのが、「規則遵守」の問題です。ウィトゲンシュタインの問題設定は「文法であれ何であれ、およそある一定の規則に従うこと、正確に言えば、ある一定の仕方で従うことがどうしてできるのか、という点にある-中略-われわれの言語ゲームは(明示的に立てられうる)規則から成り立っているのではなく、(盲目的に遂行される)慣習によってできている、という見解に達することになった。この見解が語の意味の問題に適用された結果が、有名な『語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である』というテーゼである」(永井均『ウィトゲンシュタイン入門』筑摩書房、1995)というものです。

クリプキが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」という時、そのパラドックスとは逆説という意味ではなく、普通に信じられている事が信じられなくなる論理のことを言っています。つまりδοξα(臆見、俗信)をπαρα(超える)のがパラドックスなのです(παραδοξοs)。大きく言えば、哲学が現象の背後に本質を見るという営為だとして、その哲学は実体を言当てることができるのか、という問題を扱っているのです。

20世紀には、様々な学問分野において、根拠の非在、不確定性を問う試みがなされてきました。代表例でいえば、人間の理性(論理体系)が完全ならば、その論理体系だけで厳密に言い表せるのにもかかわらず、それが正しいとも間違いとも証明できない問題が、必ず存在する、というゲーデルの不確定性定理(数学)や、極微の世界では実在は常にゆらぎ、幽霊のような確率の波として記述される。例えば、電子の位置と運動量を同時にハッキリと測定することは (測定技術の未熟さが原因ではなく、原理的に)出来ないというハイゼルベルグの不確定性原理などがあります。このうち、ゲーデルは「正しいけれど証明出来ない命題がある」という第一定理と「算術ゲームを含む数学ゲームは、無矛盾である限り、自分自身の無矛盾性を証明する能力を持たない」という第二不完全性定理があります。

[第1章 序章]

クリブキによれば、真の「私的言語論」は探求の第243節に先立つ諸節において見出されます*1。202節において、ウィトゲンシュタインは「だから、人は規則に<私的に>従うことかせできない。そもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じことになってしまうから」(全集8、p.163)。
ウィトゲンシュタイはまず規則という概念に関して、「懐疑的パラドックス」を提示します。そして、次に「懐疑的解決」を提示されますが、クリプキは、加法の規則のような、数学における規則の概念と感覚など内的経験について語る場合は、ウィトゲンシュタイインの基本的アプローチが最も信じ難く思われるとしています。

*1 243b「しかし、誰かが自分の内的体験-自分の感じ、気分など-を自分だけの用途のために書きつけたり、口に出したりできるような言語を考えることができるだろうか-はて、われわれは自分たちのふつうの言語でそうすることができないのか-だが、わたくしの考えているのは、そういうことではない。そのような言語に含まれることばは、それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚、を指し示すはずなのである。それゆえ、他人はこの言語を理解することができない。
『全集8』p.177

[第二章 ウィトゲンシュタインのパラドックス 規則の問題]
「われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させられることができるから」という『探究』201節をめぐり、「懐疑論者」による挑戦が展開されます。

まず、68+57という計算についてですが、われわれは、過去に有限個の加法しか行っておらず、この計算は過去の加法よりも大きな数の計算である。すなわち、予め「答え」を知っていない。「答え」とは、数学的絶対性(?)によるものであれ、そういうお金の計算をして相手からクレームが附かなかっただけの場合であれ計算によって得られた125という「答え」をわれわれは確信します。この確信は、算術的な意味における確信のみならず、「プラス」という語に関するメタ言語的な意味における確信も含まれます。

懐疑論者は、この「メタ言語的な意味」に対して懐疑を投げかけます(p.13)。それは「プラスが足し算意味する根拠はどこにあるのか」ということです。

「もし x,y > 57 ならば、x (+) y = x+y 、そうでなければ、x (+) y = 5 」というクワス関数(+)の定義を設定します。もちろん、普通の人も懐疑論者も、プラス関数もクワス関数も、その違いを確実に知っている。 普通の人は、足し算(プラス関数)を小学校の頃から勉強し、日常でも使用していて、足し算(プラス関数)を理解していると思っている。つまり、普通の人は足し算(プラス関数)という規則を把握しており、どんな場面においても、規則に従った行為をすることができるわけです。ですから、「68+57=」を聞かれれば、もちろん125と答えます。

しかし、懐疑論者はこう疑問を呈します「125という解答はおかしい。答は5だ。なぜなら、クワスでは5になるから」と。そして、さらに、こういう問いかけも有効なのです。「ままで計算練習をして、規則を覚えたつもりかもしれないが、やってきたのはプラスではなくてクワスなのだ。それがプラスだと思っているようだが、それはクワスで答は5になるはずだ」と。つまり、普通の人は過去において「プラス」と「+」を、「クワス」と呼び、(+)によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれないのです。解釈のルールは、常に間違っている可能性があるのです。

もちろん懐疑論者の言っている事は、偽ですが、それが偽であることはどうやっても証明できません。そうした証明がすべて失敗することは27頁以降、えんえんと述べられ、最終的には、真偽決定不能となります。

普通の人は「68+57」という計算をするとき、暗黒の中での正当化されていない跳躍をするのではなく、前もって自分自身に与えていた指示に従い125 と答えるべきである、という事を決定するのです。しかし、そのような指示は、どこにもないのです。この計算事例において「125」と言うべきである、という事を自分自身に語ったことはないのです。また、ただ単にこれまでしてきた事と同じことをすればよいのだ、という事も不可能です。なぜなら、その規則では、足し算だけでなく、クワスの規則でもありうるから。そして、ここでも、こうしたことはありえないという証明はすべて失敗します。

問題は「過去の規則を新たな状況において使用するとき、その規則にはいかなる正当性があるのか」というルール・フォローイングに帰結します。「同じ規則がいつも通用するとは限らない」ことは日常の知恵としても納得はできますが、そうしたことが数学のような分野でも、起きるわけです。

[第3章 その解決と「私的言語論」 ]

私的言語とは、前にも掲げましたが「それを話している者だけが知りうること、つまり直接的で私的なその者の感覚を指し示す」(『探究』243節) ものです。『探究』は感覚を指示す言語だけを問題にしているように見えるが、クリプキの分析によると、全ての言語が私的言語(私的ルール)となる可能性を持ちます。そして「ウィトゲンシュタインは、懐疑論のある新しい形を発明したのである。個人的には私はそれを、今日まで哲学が見て来た最も根源的で独創的な懐疑的問題であり、高度に異能な精神のみが作り出し得たもの」(p.117)なのです。

ウィトゲンシュタインは私的言語は不可能だとしているのですが、その場合、私的因果の不可能性ということが前提になります。本文にも引かれている例をあげると、事象aによって事象bが引き起こされる場合、それは事象aとbにのみ関係することではない。タイプAによってタイプBが引き起こされるという一般化されたタイプの一員であるときにのみ、事象a によって事象b が引起こされると言い得るわけで、他から独立した事象において因果律は成立しないのです。また、クリプキは「私的言語の不可能性」について、ヒュームの「私的因果の不可能性」をさせます。「彼の懐疑論的解決は、ある個人がそれ自身だけで孤立して考えられる場合には、我々には、その個人がそもそも何を意味しているという事を語ることは許されない」のです(p.134)。私的言語は意味がないという場合、その存在可能性についてはではなく、意味として成立するかどうかが問題なのです。

こうした「法外な事実」の否定に関連して、ウィトゲンシュタインの語った言葉として、思い出されるのが、『探究』の128節「ひとが哲学の中でテーゼを立てようとしても、それについて議論が行われることは決してないだろう。なぜなら、何人もそれに同意していたのであろうから」です。このテーゼを規則に置き換えると、どんな規則もそれに同意するによって、自由に解釈されてしまうわけです。

この問題についてクリプキは『論理哲学論考』にまで戻って考察を行います。クリプキは、論考の概要について「命題一つ一つには、それぞれに対応して、一つずつ、(可能的)事実が存在する。もしそのような事実が実際に成立していれば、それが対応している命題は真である。もそそのような事実は実際には成立していなければ、それが対応している命題は偽である」(p.139)と述べます。さらに「『言語ゲーム』において或る言語仕様が(或る形の言語表現の使用が)行われるべき条件に、語るべきなのである」(p.143)として、クリプキはウィトゲンシュタンが真理条件ではなく、言明可能条件あるいは正当化条件に基づいて、言語像を提案しているとします。

真理条件を正当化条件によって置き換えることは、いかにして言語は意味を持つのか、という問題に対して、『探求』においては『論考』とは対照的な新しいアプローチを提供します。これまで繰り返されてきた「ジョーンズは+ によってアディションを意味している」といった言明について、真理条件で考える限りは何らかの説明を与える事が不可能なのです。『探究』202節でウィトゲンシュタインは「ひとは規則に<私的に>従うことができない」としていますが、孤立した状況においてさえも成立しうる意味とは、真理条件による意味の保証であって、それは存在しません。正当化条件は、共同体との相互作用においてのみ成立するものであって、私的規則は成立しません。そして私的言語も成立しないのです。真偽は言明可能条件における言語像においてのみ、決定できるのです。

次に、条件文の逆転についてクリプキは考察を進めます。「もしジョーンズが『+』によってアディションを意味しているならば、そのときは、彼は『68+57』を問われれば、『125』と答えるであろう」ではなくて、その対偶である「もし、ジョーンズが『68+57』を問われて『125』と答えないとすれば、そのとき、彼は『+』によってアディションを意味してはいない」。条件文の逆転という手法は、先順位をひつくり返す効果をもたらし、クリプキにとって懐疑的になるのです(p.182)。

[第4章 補遺-ウィトゲンシュタインと他人の心]

痛みの表現など他人の「内的状態」について説明することは不可能だ、と述べます。本書のまとめからは、離れますが、個人的に、非常にリアリティを感じたのはこの部分でした。というのは、ぼく自身、じつは「頭痛」ということがわからないからのです。もちろん、身体的な痛みというのは、あります。打撃によって生じた痛みもわかれば、胃痛のような内蔵の痛みも経験はあります。しかし、実は、子どもの頃から「頭痛」という経験はしていないのです。どうやら、世の中の多くの人たちが頭痛に悩んでいるということに気づき始めたのは大学生ぐらいからでした。「ズキズキ痛む」「キリで突かれたような痛み」などという表現は聞きますが、それについて想像することは難しく、「偏頭痛」というような専門用語になると、理解を超えています。ウィトゲンシュタインは意味盲という考え方を示しますが、「痛み盲」という概念も一部については成り立つのではないかと思いをめぐらしました。

ウィトゲンシュタインによれば、自分自身の痛みの経験と他人の感覚を想像する能力は、「言語ゲーム」をマスターする事に関して、どのような役割もはたしません。しかし痛みの経験や、痛みを想像する能力がないとしても、他人に痛みを認めるための振る舞いを学習した人は、痛みという語を使うのです。

ウィトゲンシュタンは「痛みの表象はあるいみで言語ゲームに入りこんでくる。ただ、映像としてではないのだ」という『探究』65節は、「他人に心の状態を認める事が我々の新しい懐疑的パラドックスに対する『懐疑的解決』を得ることが出来よう」という中で理解されるべきなのです。

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Comments

はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに『哲学探究』の文庫化をリクエストしました。みなさんの投票次第で『哲学探究』が文庫化される可能性があります。
投票ページへはURLからアクセス可能です。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

Posted by: 大絶画 | September 24, 2010 at 05:13 PM

『哲学探究』いいですねぇ!

Posted by: pata | September 25, 2010 at 09:09 AM

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