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January 24, 2009

『アダム・スミス』

Adam_smith

『アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界』堂目卓生著、中央公論新社

 この本を読んでみようと思った理由はふたつ。

 エコノミストの08年度 優秀経済書のベスト1だったということ。あと、サントリー学芸賞の政治・経済部門も受賞していますね。サントリー学芸賞の政治・経済部門、けっこう信頼できますね(他のは?なのがあるけど)。まあ、合わせて一本みたいな。

 あと、お正月にNHKでやっていた吉本隆明さんの講演で『国富論』が取り上げられていたこと。吉本さんは労働価値説の説明の仕方が分かりやすくて抜群だと語っていましたが「ああ、吉本さんらしい評価だな」と感じると同時に、『資本論』の前に読んで影響を受けていたんだな、と感じたことは新鮮でした。

 この本をひと言で表せばスミスのもうひとつの主著(とはいっても『国富論』とこれしかないのですが)『道徳感情論』の視線から『国富論』を読み直せば、アダム・スミスの「見えざる手」は市場原理主義を賛美しているのではなく、資本家が利益を追求することが、貧困と失意の中で苦しむ人々を救うことになるんだ、ということを言いたかったという感じ本。

 堂目卓生さんは1959年生まれだから、よほどのことがない限り新旧ふくめて左翼の運動にはほとんど影響を受けなかったと思うので、そういう出自だと仮定して、新自由主義が勢力を伸ばしすぎたことへのエスタブリッシュメントからの反省という問題意識から書かれたとすれば個人的には退屈だと感じます。

 ですが、読んでいて、《席次は、人間社会における努力の半分の目標なのであり、そして、貪欲と野心がこの世に導入したすべての騒乱と動揺、すべての強奪と不正の、原因なのである》(『道徳感情論』一部三編二章)ということを認めつつ、こうした野心によって経済は発展し、貧困は減少し、社会は発展するんだ、というスミスのおおらかなバランス感覚はやはり素晴らしいと思いました。

 逆に、少し前に流行ったトリクルダウンなんて言葉で市場万能主義をとりつくろうとするのは、エスタブリッシュメントにしては、自分たちの儲けたいというような意識を隠すことが先行するようで、潔くなかった感じがいます。

 まあ、とにかく、これだけ多様な解釈が可能なんだ、ということは、『国富論』が古典だ、ということの証なんでしょうね。

 ということですが、本書は前半が『道徳感情論』の解説、後半がそれを踏まえての『国富論』の読み直し、という構成になっています。

 著者によれば《スミスは、社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考える》《少数の人が非常に慈恵的であったとしても、社会の構成員の多くが正義を軽蔑するならば、社会は崩壊するだろう》ということです(p.64)。次の社会秩序にとって正義が不可欠だから法を定めるのではなく、正義を駆り立てる憤慨を嫌うために、法によって憤慨を抑えている、という議論は、全体とは関係ないかもしれませんが、個人的には面白かったかな、と。

 また、著者によるとスミスは、最低水準の富さえあれば「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」心の平静さを保つことができると考えています。逆に最低限の富を得られなれば、人は悲惨な状態に陥ると同時に、そうした貧しい人は軽蔑され、無視されることで、心の平静さを乱されると考えています(p.80-)。まあ、ここらへんは厳しい見方ですが、そうなんでしょうね。

 しかし、高慢で無感覚な人間も、彼らの野心によって経済を発展させ、社会を繁栄させるのだ、というのがスミスのリアリティ(p.90)。著者によると《スミスの議論の特徴は、人間の中に「賢明さ」と「弱さ」の両方があることを認めている点》であり、虚栄心から奢侈品を求めるような弱さも「見えざる手」に導かれて社会の繁栄に貢献するんだ、ということなんですな(p.104)。ここらへんはイイ感じ。

 このように『道徳感情論』を読めば、スミスの考える市場は自由競争原理主義者が語るようなものではなく1)人々が欲する商品をリーズナブルな価格で豊富に提供するが2)誰も相対的に優位な状態を維持し続けることはできず3)市場の機能を支えているのは参加者の利己心だが4)公共の利益のためにはフェアプレイの精神が必要だ、ということになるそうです(p.169-)。歴史的にもスミスがレッセ・フェール的に非難したのは、金属貨幣を多く保有するために貿易黒字を人為的な作り出すような重商主義政策であった、というのが著者の言いたかったことでしょうか(p.175-)。

 まあ、後半の『国富論』の部分はそう面白いものでもありません。

 この本に関する書評をいくつか読むと、終わりに再び『道徳感情論』にもどってひかれるプルターク英雄伝に出てくる話に言及しているのが多いんですよ。

 

エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとにあてはまるだろう。王は、その寵臣に対して、自分が行なおうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。王は言った。「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。寵臣はたずねた。「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。

 というこの文章について、なんか「修身の教科書かい」と思うよなことを書いてる人がおおいんですわ。

 だけど、個人的には、申し訳ありませんが、まったく響いてきませんね。

 愛するヘーゲルならば《善をめぐっては果てしなくおしゃべりが続いて、満足は見いだせない。善はきわめてあいまい》(『法哲学講義』長谷川宏訳、p.254)と書くんじゃないかな。

 ぼくは伊藤忠の丹羽会長を尊敬しているのですが、この方は全学連の闘士としての経験があるのと、伊藤忠のトップに立ったあとも電車通勤を続け、クルマもカローラしか乗らない、という「心の平静さを保つ具体性」があるから。「相談役や顧問として残ればいつまでも運転手付のクルマをあてがわれるような時代じゃない」ということを感じて、どうせいつか奪われるのなら自分から拒否するという感じなのではないかと思いますが、『道徳感情論』を通しての読み替えで留めておけばいいものを、経営哲学みたいなものにまで言及しようとすると、せっかくの本の価値がガタ落ちになってしまうんじゃないかな、と感じました。

 あ、プルタークで思い出しましたが、京都大学学術出版会から原典訳が出始めていますね。ちゃんと対比されている構成ですので、ご参考までに。

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