ハイデガー『ニーチェ』#16
ということで、先日はエコパで行われた天皇杯準決勝の行き帰りで、久々にハイデガー『ニーチェ』を読みすすむことができました。
そんな中で気にかかっていたところも思いだしましたので、時間もありますし、チラッと…(下巻に関して書くのは初めてかな…)。
ニーチェは、矛盾律が存在者の存在に関するひとつの命題だとギリシア的に思索して認識もしているが、この命題がアリストテレスによって言い現されたということを認識しておらず、彼自身の立所を確定することができない、というあたり。
しかし、この翻訳では分かりにくいですよね(下巻pp.166-167)。
いかにも、アリストテレスはギリシア的に思索していた。存在は直接的に、それの本質において臨在性として見守られていた。このような本質における存在者の存在をουσιαとして、ενεργειαとしてεντελεχειαとして端的に看取し、その観取されたものを語り、語りつつ示すことで、彼には足りたのである。ましてギシリアの思想家たちは、存在-存在者の本質-は、決して目前の存在者をもとにして算出したりできるものではなく、むしろιδεαとしてそれ自身からからおのれを示してこなくてはならず、それもそれにふさわしい直観にのみ近づきうるのだということを心得ていたから、それで足りたのである。
ουσιαは英語でいえばbe動詞のειμιの分詞。LIDDELL&SCOTTの辞書(中型版)によると財産、所有物という意味の他に、プラトンの著作ではbeing, essence, nature of a thingという意味でも使われていると書いてあります。
ενεργειαはエネルゲイアというか、力、働きですね。
εντελεχειαはLIDDELL&SCOTTの大型版しか載ってません。意味はfull, complete。
そうなると、ここの意味は「このような本質における存在者の存在を事の性質、力、充満として端的に看取し、その観取されたものを語り、語りつつ示すことで、彼には足りたのである」という感じなんですかね。
ということで、今年もよろしくお願いします!
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