« 吉例顔見世大歌舞伎 | Main | U19戦、救いのない完敗 »

November 08, 2008

『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』

Arai_juda

『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』荒井献、岩波書店

 一昨年、ナショナルジオグラフィックから出た『ユダの福音書を追え』と『原典 ユダの福音書』はダ・ヴィンチ・コードのブームの後でしたのである程度は話題になったと記憶しています。しかし、特に原典うんぬんと銘打った本は、コプト語原文からの訳ではなく、英訳*1からの「重訳」というお粗末きわまりない代物ですし、内容自体もエイレナイオスの『異端反駁』で知られている以上の発見はなさそうでしたので「まあ、後でゾッキ本コーナーにあったら100円ぐらいで買えばいいや」と思ってました。

 読む価値のありそうなのは『ユダの秘密―「裏切り者」とその「福音書」をめぐる真実』ジェイムズ・M・ロビンソン著ぐらいなのかな(それでも買いませんでしたが)と思っていましたら、ロビンソンと同様、意外とwジャーナリスティックなセンスもお持ちの荒井先生が、これまでの研究をベースにサクッと正典福音書に描かれているユダ像の分析と、グノーシス主義が書いたであろう『ユダの福音書』の世界観などを解説してくれた本を上梓なさっていました。

 『ユダの福音書』に関しては子どもだましのような本が多い中、荒井先生はさすがに、共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とヨハネに描かれているユダに関する記述を対照できる共観表を最初にもってきてくれるなど、当たり前ですがちゃんとしています。

 それを踏まえてマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネと時代を追ってユダに関する記述を検討し、さらには使徒教父文書、新約外典におけるユダについても触れながら、『ユダの福音書』の世界観、文学形式などを説明するというコンパクトな分量ながらゆるぎない構成。

 やっぱり、一番よかったのはマルコですかね。

 まず、マルコが成立した地域(荒井先生はガリラヤに近い南シリアを想定)では、ユダヤ戦争において住民同士の掠奪・虐殺行為が行われたり、その後の混乱期には大量の難民も流入したことが考えられるといいますが、その中でキリスト教徒はユダヤ系住民から裏切り者とみなされ、その他の異邦人たちからはローマに反抗したユダヤ人と同じであるとみなされていたのではないか、という背景の指摘はハッとしました(p.45)。

 マルコ9:31でイエス自身による受難予告では『引き渡される』という意味のギシリア語が使われますが*2、これには裏切るという意味は考えられても、売り渡すという意味はなく(p.41)、その後のマタイやルカ文書でこそ死んだことにはなっていますが、直接的な言及がないマルコでは《ペトロをはじめとする弟子たち「全員」と共に、ガリラヤにおける復活のイエスとの再開の約束に与っていることを示唆している》(p.54)というのはいいな、と。

 荒井先生はIコリ15:5だけでなく外典『ペトロによる福音書』の十二人という記述に注目し《ユダはイエスを裏切った後、どのような仕方で、まだどの時点で弟子集団に復帰したか、またどのような死にざまをしたかについては定かではない。しかし、少なくともイエスが顕現後、十二弟子に顕われたという伝承が存在したことは注目に値いしよう》とマルコに関してはまとめています。

 確かに、マルコの該当箇所を対観表で改めて読み直しみると、ユダに対しては、ペトロに対するような厳しい非難は書きこまれてないような感じも受けますね。

*1
 荒井先生は例えば以下のようなところを問題がある、と指摘もしています(p.153-154を若干アレンジ)。

 この書の邦訳(70頁)では、「皆を導くあの星が、お前の星だ」で改行されており、これに続く新しい段落の一行目が次のように訳されている。

 ユダは目を上げると明るく輝く星を見つめ、その中へと入っていった。

 またマイヤーは、この箇所について、ユダは「まさに光り輝く雲の中で変容を遂げる」と解説している(『原典 ユダの福音書』179頁)。

 しかし、コプト語本文にはもちろん改行はなく、「ユダは目を上げると明るく輝く星を見つめ、その中へと入っていった」と訳されている文章は、コプト語本文を直訳すれば、拙訳のように、「ユダは目を上げると明るく輝く雲を見つめた。そして彼はその中へと入っていった」となる。「そして彼は…」の「彼」(コプト語でf)を『原典 ユダの福音書』訳ではユダととったために前記のような訳になっている。しかし、これをイエスととった方が、著者には、『ユダの福音書』著者の意図にも共観福音書その他の並行箇所とのかかわりにも、よりよく適合するように思われる。


*2
マルコ9:31で使われている引き渡すの意味のπαραδιδοταιはπαραδιδωμιの現在形の受動態。ギリシア語では現在形で未来を表すことがありますが、ここなんかはその典型ですね。

マタイ(17:22)とルカ(9:44)の並行箇所はもうちょっと文法的には洗練されて、「きっと~するであろう」という意味のμελλειと組み合わされた現在不定法の受動態のπαραδιδοσθαιが使われています。まあ、マルコの本文を読んだマタイとルカを書いた人物が「子供みたいな文章だな」ということで訂正したんでしょう。それでも現在形なんですな。古典ギリシア語では未来不定法と使われるのですが、聖書のコイネでは現在形なんです。

英語で直訳するとマルコはThe man is handed over to men、マタイとルカの当該箇所はis about to be handedとなる感じですかね。

|

« 吉例顔見世大歌舞伎 | Main | U19戦、救いのない完敗 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/43049965

Listed below are links to weblogs that reference 『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』:

« 吉例顔見世大歌舞伎 | Main | U19戦、救いのない完敗 »