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November 30, 2008

『もうひとつの視覚』

Sight_unseen

『もうひとつの視覚 見えない視覚はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル著、デイヴィッド・ミルナー著、鈴木光太郎(訳)、工藤信雄 (訳)、新曜社、2008

 中井先生が「みすず」に連載している『臨床瑣談』で紹介されていた本ですが、この本では長年、気にかかっているというか、個人的に面白いな、と感じているふたつの問題に関する解が示されているようで、ワクワクしながら読みすすみました。

 ひとつは、中井久夫先生の『徴候・記憶・外傷』を読んで以来「すごいな…」と思っている"無意識的自己からの判断を意識的な自己は〇・五五秒遅れで認識する"というリベ(リベット)の理論の脳生理学的な背景をより深く理解できたこと。具体的には人間は言語化、表象化される前に行動にうつる場合があるという問題です(いい年した人が破廉恥なことをやって捕まったりする場合なんかは、これが原因のことが多いんじゃないでしょうか*1)。

 もうひとつは、人間は見たいようにしか見ていないんじゃないかという問題。最初にこの問題に気付いたのは大学生の頃、メルロー=ポンティ『知覚の現象学』を読んだ時でしょうかね(マジメなことに友人ふたりと読書会形式で読み進たんですよねぇ)。いま上巻を持ってきてめくっているんですが《知覚というものは、見ているうちに次第次第にはっかりと結び目があらわれてくる一つの網のようなものだ》(p.43)なんていうあたりにはシビレました(道で遠くから歩いてくる人を友人と見間違うのは脳が見たいものを見せているからだ、というような話は『知覚の現象学』だったか『見えるものと見えないもの』だったか…)。

 さて、本書は一酸化炭素中毒の事故に遭って脳の一次視覚野を損傷してしまい、モノが見えなくなったイニシャルDFという患者の記録を担当医のグッデイル/ミルナーが一般の読者向けに書いたものです。DFは何を見ても、どう見えるかについて答えることはできませんでしたが、色は認識できるほか、ハイキングコースを歩くことができたのです。また、コップを掴むとか、ポストにハガキを入れるなどの行為も問題なくできました。グッデイル/ミルナーはDFが視覚的な形の認知に関しての視覚形態失認の状態ではあるが、どうして運動システムに影響がないのかを調べます。

 この結果、視覚には一般的な知覚表象を作りあげることのほかに、行為を制御するという働きがあることが、よりハッキリとわかります。この二つの機能は生物の視覚脳の進化の過程でつくりあげられました。コンピュータで例えれば、視覚は分散処理システムになっている、ということでしょうか。

 視覚脳は腹側経路で視覚表象をつくり、背側経路では行為の誘導を行うという分業体制が敷かれているといいます(5章のまとめ)。また、通常の意味での視覚は知識に基づいたトップダウン方式で働きますが、行為システムは光学的配列をもとに、ボトムアップ的なやり方で自動的に働くそうです。

 ものを掴んだり、障害物をよけて通ろうとする場合、使われるのは行為を制御するシステムです。無意識のうちにピタリと掴みたいものの幅に合わせて手を広げたり、スレスレで障害物をよけるような行為は《視覚を用いて熟練した動作を即座に制御することに密接に関係している》(p.39)んだそうです。プロ野球のバッターが時速150km超のストレートや140km超の変化球を打てたり、サッカーのフォワードが100km近いパスをダイレクトでボレーシュートできるのも、こうした能力を使っているからでしょう。実際、こうしたレベルでは通常の意味で「見て」から動いたのでは間に合いませんから。DFとは反対に視覚表象をつくりあげる能力は持っていながら行為を制御する視覚能力を失った人の場合、モノを掴もうとする場合には、闇中のように手を広げる手探り状態となるそうです。

 行為システムが光学的配列をもとにボトムアップ的なやり方で自動的に働く、という言い方は、『昆虫 驚異の微小脳』水波誠、中公新書、2006に書かれていた昆虫の複眼のシステムみたいなものを思い出しました。人間は昆虫とも祖先を共有していますが、昆虫の複眼と脳は《動きの方向への反応選択性を生じさせる神経計算モデルの妥当性が確かめられ》《動きの方向の検知という同一の物理的な課題に直面したほ乳類と昆虫の脳が、同じ神経計算を独立に進化させた》(p.64)といいます。こうしたシステムによって、《ハエなどの昆虫は、このような視野全体にわたるオプティカルフローのパターンを捉えることて、高速アクロバット飛行の制御を実現している》(p.66)んだそうです。
 
 『もうひとつの視覚』のp.132に書かれている《知覚は受動的なプロセスではない。私たちはたんに、ある瞬間に網膜上に映っているものすべてを体験するわけではない。知覚とは、入力情報とこれまでの視覚体験から構成され保持されている鋳型とのたんなる照合以上のことである。私たちの「見る」もののの多くは、そこにあるものについてのもっともありうる仮説にもとづいた内的創造物なのである》という部分は、知覚表象について書かれたもっともラディカルなテキストのひとつだと感じました。

 また、7章のまとめの《私たちの行為の大半は、本質的に自動的なシステムによって制御されており、まったく意識にのぼることのない視覚的計算を用いている》というのも、「そこまで言いますか」と感動しました。

 今後、fMRIなどを使った様々な実験で、こうした脳の仕組みがもっと探求され、ぼくみたいな素人でもわかるような形で発表されれば、と思います。

*1
 人間は《無意識的自己からの判断を、意識的な自己は〇・五五秒遅れで「いま、自分がこう判断している(決断している)とみなすのです」。当たり前ですが、みなさんに殺してやりたいやつが一人や二人いてもかまわないのです、実際に殺さなければ。なぜ実行に移さないかといえば、この「待てよ」というのが〇・五五秒遅れで働くからです》《この「待て」がしっかりしているかどうか。これを「良心」といってもいいかもしれません。「意識」と「良心」はヨーロッパでは生まれた観念で、あちらではもともと同じ言葉なんですね》《「聖職者」といわれる人がいいトシして痴漢とか万引きで余生を棒に振りますね。ひとごとではありません》(『こんなとき私はどうしてきたか』中井久夫、医学書院、p.77-)。

http://pata.air-nifty.com/pata/2007/08/post_a5ce.html

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