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August 02, 2008

ハイデガー『ニーチェ』#8

 「プラトンの《国家》」の章も、いよいよ、芸術家批判の寸前のところまできました。

 ここまでの議論を整理する形でハイデガーは、鏡に映すようなモノをつくる人である芸術家は、存在者を現出させるが、それはφαινομενον(ファイノメノン)として現在させるのであって、αληθεια(アレーテイア)なものとしては作り出してはいない、とまとめます。

 しかし、だからといって、職人が作るものは「現実の物」ではない、と。職人たちも純粋なιδεα(イデア)は製作できず、自分に招致されたものに眼をやるだけだ、と。

 これを説明しているのが、ソクラテスに語らせている次の言葉です(597A)

μηδεν αρα θαυμαξωμεν ει και τουτο(το εργον του δημιουργον)αμυδρον τι τυγχαει ον προs αληθειαν

 αμυδρονはハイデガーも「訳しにくい」と書いていますが、珍しいというか、あまり使われない単語です。Liddell&Scottの中判には載っていませんで、大判ではdimly seen through water, faint, vagueと説明しています。

 藤沢先生の訳は《それなら、そういう製品とても真実在に比べれば、何かぼんやりとした存在にすぎないというになっても、けっして驚かないようにしよう》となっていまして、細谷先生はハイデガーのおそらくドイツ語からの重訳から《このもの(職人が製造したもの)でさえも、隠れなきさにくらべれば、どこか暗くぼんやりしたものになったとて、少しもふしぎではない》と訳しています。

 少し意訳をさせもらえれば、ここは「職人が作ったものでさえも、隠れなき真実(αληθειαν)と比べれば、水を通して見るもののように薄ぼんやりした存在であることは驚きではない」みたいな感じになるんじゃないでしょうか。

 ハイデガーの授業を受けてみたいな、と思わせるのは次の展開です。

 ハイデガーは、少し前の596Aの《多様な多くのものは、冴えた眼で見守る人々よりも、曇った眼で見る人々に、よく見えるものだ》という文章に改めて注意を向けるんです。

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