ハイデガー『ニーチェ』#13
イデアのつくり手だけが「本性(実在)製作者」であるというのがプラトンの主張なのですが、藤沢訳で「本性(実在)製作者」と訳されているφυτουργοs(ヒュトウルゴス)は、本来的には「庭師」あるいは「ぶどう園の園丁」みたいな意味の単語です。
例によってLiddell&Scottを引いてみると、中判では""working at plants, a gardener, vinedresser"がまずきて、比喩的にソフォクレスやエウリピデスが"begetting(子をなす者=特に男性)"という意味で使い、プラトンは"the author of a thing"という意味で使っている、と書いてあります。大判ではさらに『国家』597Dでは"creator, author"という意味になると書いています。
「庭師」や「ぶどう園の園丁」を表す単語が創造者を意味するようになる、というのもなかなか深い気もしますが、それはさておきハイデガー『ニーチェ』の細谷訳ではφυτουργοs自体がまったく訳出されていないので、多くの方は「まあ、創造者ぐらいの意味なんだろうな」ぐらいて通りすぎていくかもしれません。
とにかく、プラトン的に存在の製作者は第一に神です。第二は《寝台をそれの本質に従って製作する》職人。第三は《絵の中で寝台を出現させる》画家となります。
しかし、職人は役立ちますが、画家の仕事はものの役にはたたない、とプラントは驚くような暴論を吐くわけです。
『国家』第十巻は、この後、詩人をコテンパンに貶して終わるのですが、ここでも画家はδημιουργοs(公衆のための製作者)ではなく、μιμητηs ου εκειον δημιουργοιである、と貶します。μιμητηs ου εκειον δημιουργοιを直訳すると「公衆のための製作者である彼ら(職人)の模倣者」ということで、職人たちより明らかに一段、低くみなされています。
597Eのこれ以降のテキストは、ぼくがLOEB CLASSICAL LIBRALYで持っているPLATO"REPUBLIC"とはかなり違っているので、ギリシア語ではあまり追求しませんが、とにかく、画家とは模倣者であり、第一のιδεαから数えて3番目のものでしかなく、職人が製作することに比べてもιδεαから遠ざかっている、というのがプラトンの主張です。
そして模倣者μιμητηs(ミメーテース)としての芸術家に関してプラトン的概念で問題になっているのは、ものごとを再現し模写することすら満足にできず、職人ほどにも再現力がない、ということだとハイデガーは付け加えます。
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