ハイデガー『ニーチェ』#5
ハイデガーが何をやっているとかいいますと、『国家』の厳密なテキスト解釈です。細谷訳でも、文庫本でまだ4頁しかいってませんが、プラトンのテキストでは今回の部分もいれて藤沢訳で文庫版で10行ぐらいです。木田先生がハイデガーのことを古典も踏まえた哲学史家とみなすのもむべなるかな、みたいな感じで、悠揚迫らずテキストに向かい合っていきます。
前回、少し先走って省略した以下の部分ですが
Αλλα ιδεαι γε του περι τυαυτα τα σκευη δυο, μια μεν κλινηs, μια δε τραπζηs
藤沢訳では、かなり言葉を補いつつ《ところがそれらの家具について、実相<イデア>はということになると、二つあるだけだろう-寝椅子のそれが一つと、机のそれが一つ》
藤沢先生が椅子のことを、わざわざ寝椅子と日本語で訳しているのは、当時の椅子は一般に寝椅子のことだったからです。ですから、最後の晩餐なんかが行われていたら、イエスと十二使徒は全員、寝椅子に寝っ転がりながら食べていたはずでして、今の基準からすると、ちょっと…ということにもなりかねません。
まあ、それはおいておいて、ハイデガーは展開します。
προs την ιδεαμ βλεπων ποιει
それぞれの家具をつくる職人たちは《イデアを見ながら ιδεαμ βλεπων》つくる、というようにプラトンは主張します。
ου γαρ που την γε ιδεαν αυτην δημιουργει οιδειs των δηνιουρμων
ただし、職人たちはイデアはつくらない、と。
しかし、これはよくよく考えてみれば、かなり牽強付会な論議の展開です。イデアを「見ながら」造るというのは、まあ、許せるかもしれませんが、それの主張を「職人たちはイデアをつくりはしない」ということで補うというのは、ちょっと展開がおかしいかな、と。ハイデガーは、プラトンの「職人はイデアをつくらない」という主張について、ここにいかなる実践にも克服しえないその限界(終末)が現れる、と書いています。
唯一、職人たちの行為で積極的な意味を持つのは、職人たちはイデアにしっかりと見つめることによって、仕事場の領域は遙か遠くまでに及ばせていることなのかもしれません。
《これがプラトンが迫っている根本的洞察である》とハイデガーは語ります。
まあ、いまさら書くのもなんですが、平たくみれば、やはりプラトンは職人をかなり低く見ているのかな、と。それでも、当時の水準からすれば、イデアはつくなれないにしても、イデアをしっかり見つめている、ということに積極的な意味を持たせたのかもしれませんが。
しかし、そうした職人よりもさらに下であると断言されるのが芸術家なんです。
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