ハイデガー『ニーチェ』#3
『国家』の第十巻は所謂「詩人追放論」として知られています。もっとわかりやすくいえば、芸術家不要論。
ハイデガーが多くの頁をさいているのは、プラトンの立場はニーチェと180度違っているといいますか、ニーチェがプラトンと180度わざと反対の方向に振ったともいえる
一、芸術は力への意志のもっとも透明で熟知の形態である。というニーチェの芸術に関する命題を、より鮮やかに浮かび上がらせるためにわざわざ詳しく解説しているのだと思います(p.109)。
二、芸術は芸術家の側から把握されなくてはならない。
三、芸術は、芸術家についての拡張された概念によると、あらゆる存在者の根本的生起である。すなわち、存在者は、存在するものであるかぎり、自分を存在するもの、創造されたものである。
四、芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である
「四」でニーチェが「ニヒリズム」と呼んでいるのは、本質存在を決定するのはイデアを内包する「エイドス=実相」であって「ヒュレー=質料」ではないという反自然的思考が内包されているプラトンの考え方といいますか問題設定の仕方です。
といいますか、存在論が哲学の基本ならば、プラトニズムによって西洋哲学は最初から大きなバイアスをかけられていた、というのがニーチェのいいたかったことではないか、ということをハイデガーは明らかにしていくと思うのですが、御本家のプラトンの、こうした考え方が最もよく出ているといわれているのが、『国家』596aの以下の部分。
ειδοs γαρ που τι εκαστον ειωθαμεν τιθεσθαι περι εκαστα τα πολα οιs τουτον ονομα επιφερομεν
平易なギリシア語しか使われていませんが、あまりにも一般的といいますか定式的に書かれているので、意味はとりにくい文章です。考えてみると、西洋の哲学者にとっては、この手のスタイルが最もエレガントであると思われているのかもしれませんね。でも、それを日本語に訳すとなると大変なわけで…。
細谷先生たちは直訳調で《或るειδοsを-それぞれ何かひとつのものを、われわれは同じ名前を付けるそれぞれ多くのものの範囲(περι)に関して定立する(われわれの前におく)ことになっている》と訳していますが、正直、何を言っているのかわかりません。
岩波文庫の藤沢先生の訳は《というのは、われわれは、われわれが同じ名前を適用するような多くのものを一まとめにして、その一組ごとにそれぞれ一つの名前(実相)(エイドス)を立てることにしているはずだから》です。これも、分るような感じはするのですが、いまひとつピンときません。
ちょっと意訳がすぎるかもしれませんが、ぼくならこう訳します。
「我々は同じ名前として現われる物をひとつにまとめて、一組ごとにそれぞれエイドス=実相を立てることにしている」
えー、まだ2頁目です。
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