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June 08, 2008

『ハイデガーの思想』

Heidegger_kida_iwanani_shinsho

『ハイデガーの思想』木田元、岩波新書

 木田先生流のハイデガー解釈本をずっと読んできたのですが、そろそろ打ち止めにしようということで、包括的といいますか、ハイデガーの生涯の歩みも追いながら、その哲学といいますか、哲学史観を解説してくれる『ハイデガーの思想』を読みました。同じ話の繰り返しも目立ちますが、まあ、それはぼくの場合、あまり気にしないので。

 個人的に一連の本を読んで、昔、集中的に読んだことのあるルドルトフ・ブルトマンやカール・バルトとの親交、影響がハイデガーの中で大きいんだな、ということが分りました。この『ハイデガーの思想』もユダヤ系の詩人パウル・ツェラーンがハイデガーを山荘に訪ねるところから始まりますが、同じことを書いてある『ガーダマー自伝 哲学修業時代』ハンス・ゲオルク・ガーダマー、未来社とは180度違った書き方なのには驚きました。ガーダマーが自伝で《思っても見るがよいー迫害を受けたユダヤ人、ドイツ人ではなくパリで生活した詩人、しかし紛れもなくドイツの詩人ーそういう彼が胸苦しさの裡にもこの訪問を敢えてするのである》(p.265)と感動的に書いてある邂逅を、木田先生は結局二人は理解しあえず、別れた後に《ハイデガーは、「ツェランは病気だ、もう治る見込みはない」と冷たくつぶやいた》(p.5)という風にまとめています。

 まあ、ドイツ人であるガーダマーにとっては、ユダヤ人が一時期はナチス協力者というか突撃隊サポーターであったハイデガーに会い来て、一篇の詩を残したということが重要なのかもしれませんし、木田先生としては、そうしたことをガマンできないユダヤ人たちが様々な資料からこの訪問の際にも冷たくユダヤ人を突き放したという風に描いた文章を参照せざるを得ないということなのかもしれません。

 話は飛びますが、自伝の白眉というのはガーダマーではありませんが修業時代ですよね。不安の中で自分をどう確立していくのか、しかもどういった方法論で壁を破っていったのか、みたいなあたり。そして、おそらくは、多少、理想的に描かれているかもしれませんが、そうした時代の学究生活の静かさには、憧れてしまいます。ガーダマー自伝でまいったのは、ブルトマンの自宅で行われた「グレーカ」というギリシア語の文献を読む会。毎週木曜日の8時15分から始まり、11時ちょうどまで続けられたというこの会ではギリシア語原文で悲劇と喜劇、教父とホメロス、歴史家と雄弁家の書物を《われわれは何千ページも読んだ》(ibid, p.44)というんですね。今の生活では無理でしょ…。家に帰れば地デジ、BSデジタル、CSの何百チャンネルが24時間、何千本という番組を流し、インターネットでも様々な情報が乱れ飛び、音楽や動画が配信されていますからね…。

 ガーダマーが自伝で描いているハイデガーの講義は《テクストの解釈において、テクストに埋没する危険を冒しても、解釈したテクストをおよそ能うかぎり納得ゆくものにすることであった。ハイデガーの講義自体において、また私としてはとりわけプラトンとアリストテレスに関して、およそ批判の余地がなくなるほど徹底してこの方法がとられた》(ibid, p.42)というんですが、こうした手法に関して、ハイデガーはカール・バルトの『ロマ書』から学んだと木田先生は言うんですね(p.103)。まとまった一つのテキストをまるごと読んでみせる技法を、ハイデガーはカール・バルトの『ロマ書』注解から学んだ、と。

 これには「なるほど」と思うと同時に、具体的な何かが欠けているんじゃないかと思いました。というのもAncient Christian Commentary on Scriptureシリーズをみるまでもなく、逐一型の注解書はこの2000年間、書かれ続かれていたわけで…。一時期は神学者を目指していたハイデガーがこうした注解書のうんざりするほどのきめ細かさにふれていないわけはないと思うのですが…。ちなみに『ロマ書』は一度、義務感にかられて読みましたが、残念ながらまったく内容が頭に残っていません。

 ただ、フト考えたのは、個人的に「コンメンタール史」みたいなのを、老後の楽しみでやると面白いかな、ということ。ただ、読むべき本が大量にありすぎるのが困るんですがね…。

 あと、『ハイデガーの思想』を読んで、木田先生流のハイデガー解釈の中で、特に時間論に関しては、さらにわかりやすい記述を見つけることができました。

 ここらへんなんかいいなぁ(p.134-)。

Heidegger_portrait

 ハイデガーによれば本意的時間性においては、その時間化はまず未来への<先駆>として生起し、そこから過去が<反復>され、そして現在は<瞬間>として生きられる。ここでは未来が優越し、三つの時間契機が緊密に結びついている。
 一方、非本来的時間性においては、未来の次元は漠然とした<期待>のうちで開かれ、過去はすでに過ぎ去ったものとして<忘却>され、現在は現に眼前にある事物への<現前>として生起する。過去はもはやないものとみなされ、あるのは眼前の事物との交渉だけである、当然<現在>だけが突出し、時間の三つの契機は弛緩した結びつきしかもたない。(中略)
 ハイデガーは、この本来的時間性と非本来的時間性をまったく異質なものとか、相互に対立し合うものと考えているわけではなく、非本来的時間性を本性的時間性の欠如態、その頽落的ヴァリエーションと見ているのであり、したがって本来的時間性こそが時間の根源的現象だと主張する。
 動物が機能に限定されているのに対し、人間=現存在は可能性なのかもしれません。ただしその可能性はシンボル世界内の可能性なのかしれませんが。

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