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June 17, 2008

『狩猟と編み籠 対称性人類学II』

Shuryo_to_amikago

『狩猟と編み籠 対称性人類学II』中沢新一、講談社

講談社の編集は『カイエ・ソバージュ』シリーズに相当、入れ込んでいるんでしょうか。なんと『芸術人類学叢書』を創刊し、その第一弾として御大、中沢先生の最新の講義録を入れてきました。

 今回は映画論。

 なんで映画なのか?と唐突に思われるでしょうが、映画館はホモサピエンスたちが"始りの宗教"を行った洞窟に似ている、というところから始まります。

 人間は長い間、暗闇の中に閉じこめられると飛び交う光(内部発光entoptic)が見えてくるのですが、これは《ホモサピエンスの脳におこった革命的な変化から生まれた流動的知性(認知的流動性)に、直接に結びついている》(p.18)のだ、と。この飛び交う光を宇宙に流れる力や霊として理解し、ホモサピエンスたちは抽象絵画のようなイメージを残します。これを中沢さんは「イメージ一群」と名づけます。さらに洞窟では増殖の祈りが行われ、そこでは動物の具象的なイメージも描かれ(イメージ二群)、さらに物語的なつながりを与えられたイメージが発生します(イメージ三群)。

 古くはプラトンの「洞窟の比喩」(『国家』514A-518B)からして、壁に映された似せられたものとしての「影」を認識することから始めますが、哲学的思考といいますか、ものを認識するというのは、マルクスなら対象化と書いたプロセスが必要なんでしょう。「洞窟の比喩」はこうした方法による認識について実は否定的なのですが、中沢流対称性人類学からすれば、旧石器以来、ホモサピエンスは類推とそこからジャンプする複合論理の組み合せで発達してきたわけですから、あまり問題はないかもれません。

 そして、中沢さんは宗教の映画的構造をはっきり理解した人は、フォイエルバッハである、と位置づけます。もちろん映画は宗教やフォイエルバッハの哲学が生まれた後に誕生します。しかしフォイエルバッハが『キリスト教の本質』の中で語っているのは、《人間は自分の心に起こっていることを直接観察することができないので、それを幻灯機のような仕組みを通して、幻想のスクリーンに投影して見ることになる》(p.22-)ということだ、と。

 「神は対象化された人間の本質である」というあたりが『キリスト教の本質』の一番言いたかったことだと思いますが、中沢さんは「人間の心はフィルムであり、人間は背後から照らされた光に投影された像を通して自分の内面を見ている」という構造に注目します。また、トリノの聖骸布のイエス像は最初に写真撮影が許可されたアマチュア写真家が現像したネガの乾版によって、初めて鮮明なイメージとしてあらわれたという話のもっていきかたも、なかなか興奮させられます。31頁から描かれる、旧石器時代のホモサピエンスたちが洞窟の中で行っていたであろう「はじまりの宗教」の儀式の空想的なシノプシスは刺激的です。

 この後、いよいよ映画を上映しながら、その宗教性を解読していくのですが、取り上げられているのはデミル監督の『十戒』、パゾリーニの『奇跡の丘』、ブレッソンの『ラルジャン』、ヌーナン『ベイブ』ですが、『狩猟と編み籠』というタイトルがとられたエイゼンシュタインの映画論、フェリーニ『道』などについても語られます。

 一番良かったのは、やっぱり『奇跡の丘』についてでしょうか。モーセがつくりあげた一神教がシステムとして出来上がってしまうと、イメージは抑圧され、戒律主義などモーセ思想の一面ばかりを強調するようになる、と。《そういう時代に、イエスはそのモーセの語っている「あるもの」とは愛である、と大胆にも語り出したのでした》というあたりはクロッサン、ボーグの『イエス最後の一週間』で指摘されている《ダビデとソロモンの統治下、力と富はエルサレムに集中し始めました。ある意味においてソロモンは新たなファラオとなり、エジプトがイスラエルにおいて再生されたのです》という言い方に通じるかな、と。

 さらに《人の思考のふれることのできない超越的な「あるもの」が、超薄のインターフェイスをとおして、人間を包み込む大きな力を放射し続けている、そのことさえ理解していれば、この世の権力に結びつく可能性をもったイメージの働きのすべては、捨て去ってもいっこうにかまわないのではないか》というのが、中沢さん曰く「イエスからの唯物論的メッセージ」であり、『奇跡の丘』はモーセの否定しようとした「無明」のままに自己運動を続ける「イメージ二群」と「三群」の働きを持つ映画という誘惑者に向かっても「サタンよ、退きなさい」と断固として告げている、と感動的に解説します。

 確かに感動的なんですが、個人的には『奇跡の丘』をそれほど評価しないのと、127頁で《パゾリーニは福音書作家ルカが書いたキリスト伝に、ほとんど完全に忠実にしたがって、その映画をつくりました》など3回出てくる「ルカ」がすべて「マタイ」の誤りであることなどから、「うーん」となってしまいました。だいたい原題からして"Il Vangelo Secondo Matteo" は「マタイによる福音書」なんですから。中沢先生は百も承知で語っていたんだと思いますが、単なる勘違いといいますか言い違いが、そのまま通って残ってしまったという感じは残念です。

 フォイエルバッハ、トリノの聖骸布、エイゼンシュタインのモンタージュ論あたりが「すげーな」と思うので、よけい…。

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